第17回 村長散歩日記【日常編】 230615(毎週ほぼ木曜配信)
(島田啓介マインドフルネス・ビレッジ村長による村長日記です♪)
回覧板代わりの村長日記。
6月15日、今日は父の命日です。亡くなってちょうど4年たちました。この頃、「私は何によって生きているか?」をよく考えます。歳をとるにつれて、いのちが自分だけのものではないという実感が強くなってきました。そこから、残された時間を何に使うのか?がテーマになります。ビレッジで新しく始まる講座とともに、すべてが関連して見えてきました。
ビレッジは村外向けの参加自由のイベントもあります。興味を持ったらぜひいらしてくださいね。
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【第17回:生かされるマインドフルネス序論】
*今日は実父の命日、亡くなってちょうど4年の記念日だ。その日のことは、昨日のように鮮やかに覚えている。9時間呼吸に寄り添いながら父の存在がますます確かに感じられた。肉体を離れた後もその存在感は継続している。
「継続おめでとう~Happy Continuation」というティク・ナット・ハンの言葉が、現実のものとして理解される。誕生と死は一つのリアリティの両面なのだから、どちらの瞬間も扉の出入りの方向が違うだけで、おめでとうと言うに値する。呼吸がそれを知らせてくれた。
深く共有された体験は、人が亡くなっても消えることはない。呼吸という身体的体験は、精神的であり、霊的でもある。魂の流れを一筋として感じるとき、私たちは逝った人から何を手渡されたのかを知るだろう。
自著『奇跡をひらくマインドフルネスの旅』(サンガ)に自分の出生について書いたが、群馬県北部の旧家に生まれたぼくは、後継ぎという立場に悩んだ。その重圧を最初に断ち切ったのは父である。彼は身をもって家の重さに苦しみ、時代の変化を見据えながら家の苦を自分の代で終わらせるという意志を持った。
6月28日から始まる『マイ・ストーリーを紡ぐ~ありのままの自分に帰るためのマインドフルネス・ライティング連続講座』は、その自著のベースであるセルフヒストリー(自分史)をきっかけに始まった。
書くことによって私は、自分のルーツと世話になった多くの人たち、出会った機会を再確認し、現在の自分の位置と目指す方向を確かめ、新しく踏み出すことができた。本書が出版された2019年はコロナの直前でもあり、それは人類史の大転換と自分の再スタートが一致する稀なる機会となった。
人生は木の葉のごとく時代の急流に翻弄されるかのようだ。もしあの人、事、場所に出会わなければ、、、と思うことは多い。同時に私自身も悪戦苦闘を繰り返しながらベストを尽くしてきた。そんな自らのいのちの懸命さを愛しく思う機会が執筆中に何度もあった。
ときどきは立ち止まって振り返ることも必要だ。自分が何を糧に生きてきたのかがわかる。回りからの助けはもちろんのこと、(意識・無意識の)内なる力によっても生かされてきたのだ。
今ここに気づきを深めれば、自分が何に支えられて存在するのかが見えてくる。仏教では食べ物を四種に分けて「四食(しじき)」と呼ぶ。それによれば、人は外からもらう食物や刺激というエネルギーとともに、自らの思いや意識のエネルギーからも栄養をもらっている。
深く見つめれば、私たちは外と内の両側から生かされていることがわかるだろう。
宮沢賢治は東北の旧家の生まれで、私と同じように後継ぎ問題に苦しんだという。今年は没後90年で、様々な記念行事や特集が組まれているが、封切りされたばかりの映画『銀河鉄道の父』では、父と子の確執と愛が描かれているようだ。
賢治の作品の数々は、そうした困難な境遇の中から紆余曲折を経て生み出された。作品の大部分は死後の出版で、彼自身は読者の反応をほとんど知ることなく亡くなっている。
与えられた運命をそのまま生きることを良しとせず、彼は「透き通ったほんとうの食べもの」を求めて37年の短い生涯を全力で駆け抜けた。いのちを繋ぐ食べ物はもちろん父母から、社会から与えられたが、賢治はそれ以上に「内なる魂の食べもの」を切望した。それは何だったのだろうか?
何によって生かされているのか知るとき、私たちは初めて自ら生きていくことができる。私は個のいのちではないと知るからだ。
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*8月から「島田啓介さんの寺子屋」は公開講座『ほんとうのさいわい~宮沢賢治の銀河鉄道の夜を身読する』を全5回シリーズでお届けする予定です。お楽しみに!!!
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