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第38回 村長散歩日記【日常散歩編】 231225(週末配信)

 
(島田啓介マインドフルネス・ビレッジ村長による村長日記です♪)
 今年も一年お付き合いありがとうございました。締めくくりに、クリスマスにかつて書いた文章を引用します。今読んでも、基本的にぼくの瞑想観は変わりません。あくまで個人的な視点ですけれど、それぞれのマインドフルネスがあっていいと思います。
 ともあれこうして皆さんと一年を越せたことがお祝いです。年越しの後、ビレッジ&カレッジと村長日記は続きます。Happy Continuation!(継続おめでとう)の言葉通り、始まりも終わりもなく、継続の流れでまたご一緒しましょう。
 

写真は全て島田啓介村長による提供です♩


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【第38回:クリスマスに苦しみについて考える】

*世界中でどれだけの親が、今朝子どもがサンタクロースのプレゼントを見つけて目を輝かせるのに立ち会っただろう。人類全体からすればほんの一部かもしれない。けれど、それぞれかたちは違えど、無条件の幸福はたしかにある。今朝家族で見た日の出は初日以上に輝かしかった。だれもが無条件の幸福を味わうことができるように、子どもの顔を横で見ながらそう祈らずにはいられなかった。

けれど、生きるのが苦しいことを忘れてはいない。世の中には大変な人もいるとか、日本人は相対的に裕福で恵まれているとか、そういう話ではない。今自分自身が苦しむ存在であること、それにもかかわらず幸せを感じうるということが、朝日が昇って光が強まるごとにコントラストを増す景色のようにはっきりと見えてくるのだ。

苦しみを舐めた人ほど、この一瞬の幸せを深く感じる。幸せが単独で幸せと感じられることはない。悟るとは苦しみが無くなることだと想像して、苦しみを減じる方向に精神的なプラクティスを試みる人がいるが、それは心身をもつ人間の本質に真っ向から逆らっている。降参するほどの苦しみに出会ったことがないか、運命の仕打ちを軽く見過ぎているのかもしれない。苦しみなしにこの世に存在することはできない。それは呼吸するのと同じく自明なことだ。

では、苦しむために生まれてきたのかというと、もちろんそんなことはない。もしそうなら、さっさと死んで天国に行ったほうが早いということになる(そうして死んでしまう人もいる)。ところが天国さえも苦しみのないところではない。地獄と天国の違い、またはこの世との違いはどこにあるのだろう? 苦の総量では計れない。

苦しみはあるけれどそれを乗り越えるすべがあるところ、それを皆で教え合うところが天国なのだ。それには、苦があるということを知らなければならない。そして苦を見る練習が必要だ。逆に同じく苦があってもそれを知らず目をそらしているなら、そこが地獄だ。

死ねば自動的に、苦しみのない理想世界に生まれ変わるなんて幻想だ。それと同時に、何らかの魔術で脳をいじったり、エレルギーをどうこうしたり、呪文を唱えればパッと悟ってあとは目出度し目出度しなんていうのもイカサマだ。そもそも悟りが苦の無い状態だなんて、だれが保証したのだろう?

苦を乗り越えることを正しく知り、それを苦しむ仲間にも伝えることができる人が、悟っていると言えるのではないだろうか。というと、思ったより地味そうだけど実はそっちのほうがよほどリアルだろう。



ティク・ナット・ハンは、自分の大切な人を苦しみのない世界に送り込むなんてけっしてしたくないという。彼は、苦しみはできればないほうがいいものとは捉えていない。幸せは、苦しみがあって初めて可能になるといい、生ごみとバラの花の関係に例えている。

彼は苦と楽を平等に観て、どちらもがお互いにとってなくてはならない存在だと言う。バラが育つのには生ごみが必要で、バラが枯れて生ごみになり、また次のバラを育てる。大理石からは蓮の花は生えない、蓮には泥が必要だとも。

この言葉が信用できるのは、ベトナムの戦禍の中で多くの仲間が殺され、自身の命も狙われ、生涯にわたって弾圧を受け続けたティク・ナット・ハン自身の経験から来ているからだ。「微笑みと気づきの瞑想」というやさしい題目に惑わされて、彼の勧める瞑想が苦しみから無縁になることと誤解してはならない。

微笑みながら坐る、風を感じながらゆったりと歩む、声を合わせて歌う、味わいながら食べる、これらすべては今でも戦場である(かもしれない)俗世に住むぼくたちの、サバイバルキットだ。それほど厳しい状況にあることをはっきり見つめながら、「なおかつ」微笑む、これは正しい意味で修行である。

しかし、我慢や忍耐を強制するものではない。まずリラックスしなければ、「気づく」ことはできないからだ。孤立してもむずかしい。人と和解することなしに瞑想はできない。だから師は、瞑想の初心者にはテレビを消し、相手と向かい合うことを勧めている。坐る以前にである。

「苦しむだけでは十分ではない」という彼は、どうすればごみをバラに変えることができるか、その方法もしっかり伝えている。「この一歩が涅槃であり、終着点だ」という言葉であらわされるように、それは遠い未来ではない今ここにある。

その今ここにおいては、自分が苦しむ存在であるというリアリティと、無条件の幸福はいつでもすでに実現しているというリアリティがピッタリと一枚に重なっている。

キリストがぼくらにとって親しいのは、「苦しむ神」だからだ。神でさえもともに苦しんでくれる。そのために父と不二である子がこの世に遣わされた。「解放の神学」が熱狂的に迎えられる中米では、キリストは道ばたで汗水たらしながらともに働く労働者としてとらえられている。

クリスチャンには解脱という意味での悟りという言葉はない。みずからの至らなさを悟るとか、そういった意味で言われことはあるが。ぼくが悟りに興味がないのは、クリスチャンだからかもしれない。それに、マインドフルネス(気づき)によって人間性が進歩するとも信じてはいない。

すべてこれらは恩寵であり、我われが斟酌できる範疇の出来事ではない、そう思う。ではぼくらの努力はどこにあるのか? マインドフルネスをお迎えするための準備を整えることだ。いわば「お正月様」を迎えるために大掃除をし、神棚を整えるように。

それは神を待ち望む気持ちと似ている。マインドフルネスは迎えるものであって、こちらから獲得する状態ではない。かなりそれてきたけれど、クリスマスに仏教瞑想とキリスト教の信仰との共通点がますます感じられるばかりである。


 
 
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https://peatix.com/event/3796286/

 
 
*毎月のスケジュールはこちら(ときおり変更もあるので、必ず以下から確 認してください)
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