第25回 村長散歩日記【日常散歩編】 230820(週末配信)
(島田啓介マインドフルネス・ビレッジ村長による村長日記です♪)
暑い夏が過ぎていきます。まだまだ猛暑の日もありますが、朝晩の風が心なしか涼しさを増してきたように感じるのです。そうした季節の感受性もマインドフルネスの大切な要素。「今このとき、すばらしいこのとき」、どんな季節もそう感じられたら暑さ、涼しさ、どちらもありがたい生きている実感です。
ビレッジは村外向けの参加自由のイベントもあります。興味を持ったらぜひいらしてくださいね。
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【第25回:私は私の本当の名前を宣言する】
*ティク・ナット・ハンの代表的な詩に、『私を本当の名前で呼んでください』がある。私はひとり、私以外の何ものでもない、そう思っていたらそうではない。じつは多くの存在から成っているのだという詩だ。それは相互存在(interbeing)と名づけられ、ティク・ナット・ハンの教えの中核となっている。
詩の中では様々な立場の人間、敵味方どうしなどが、すべて私の中に存在することが描写されている。たとえどちらかの肩を持とうとも、敵とする相手もまた私の中にいる。人間だけではなく、虫も、植物も、さらには無機物と思われている山や石でさえ私の別の現れだ。
ティク・ナット・ハンの呼吸瞑想では「私は花、私は露、私は山、私は水」と見る。なぞらえているのではなくて、私はそれらなのだ。それが身に沁みこむまで瞑想する。日常の中で、ある瞬間それに「あ」と気づくことがある。何かを一心に見つめているとき、取り組んでいるとき、ただゆったりと過ごしている瞬間などに。
本日久しぶりに画家の「熊田千佳慕(くまだちかぼ)」の言葉を集めて編んだ『私は虫である』を車中で読み返した。70歳のときに彼は「私は虫であり、虫は私である」と神様から知らされたという。瞑想ではない。地面にはいつくばって一心に何十年もスケッチする中からもらった言葉だ。
彼は世を捨て、ただ虫の世界を描写することだけを目指した。そこまで損得を超越することは難しいだろう。彼は彼の「ビンボーイズム」の美学を生涯貫き通した。困難ながら、尊厳に満ちた生き方だ。いろいろ考えることが多すぎるぼく自身に、夏の終わりの大切なメッセージをいただいた。
それは彼自身と言うより、もはや虫の生き方だ。彼は虫に習ったのだと言える。気づきは瞑想中に訪れるとは限らない。彼は虫から知らされ、虫の神様に「虫認定」されたのだ。そのとき自ら虫であることを宣言した。宣言によって応えたのだと言っていい。
「私は誰か?」と問うなら、その答えは何でもありうる。私は多くが表れた姿だからだ。画家の熊田さんが虫ならば、ぼくは果たして何だろうか? ぼくはどんな宣言をするのだろう?
精神障害者のコミュニティ「べてるの家」では、自己病名と呼ぶユーモアに満ちた名づけをする。治療者からつけられた名ではなく、当人の自己観察が生み出す新しい名前だ。仲間の意見も取り入れ、「統合失調症」の代わりに、「人生逃避型方向感覚失調症」などのひねりのきいた新作病名を考え出して名乗るのだ。
自己観察とユーモアで現実はまったく変わって見える。名づけが重要なのは、人間はその名をなぞって生きるようになるからだ。人は年月を経て、その名前によく似た顔になる。病名も年月を経ればそれに沿った自分となるの。だからバカにできない。
統合失調症を持つ人が日本に約80万人いるという。症状は同じではないし、その人の性質や環境や生き方によって、あらわれ方も様々だ。だから、ひとつの名前しかないなんておかしいではないか。
そこでべてるの家では、一人ひとりに自己病名をつけることにした。医療保険用の「仮名」を残しつつ、彼らは創作した病名でユーモラスに名乗りを上げる。それが自分を演じるひとつの役名であることを認め、まわりからも認めてもらうのだ。それは新たな人生を作り出すことだ。
病名に限らない。先日マインドフルネス・ビレッジの新しいプログラム島田の「チャランポランの広場」で、試みに画面に表示される名前を自分の好きなように変えてくださいと提案したら、何人かが応じて、じつに的確で微笑ましい傑作を生みだした。
ちなみにぼく自身は「随処適応くん」だった。さて、新しい名を名乗るとすれば、あなたは自分を何と呼ぶだろうか?
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