第28回 村長散歩日記【村内編】 230910(週末配信)
(島田啓介マインドフルネス・ビレッジ村長による村長日記です♪)
秋が迫ってくると、言葉に囲まれた部屋に座っていつまでも本を読んでいたくなります。そういう時間を自分にあげることが何よりの贅沢に思えてくるのです。ぼくは言葉の仕事をしながら、言葉の世界に住めることが幸せです。本の世界は豊穣で、尽きない楽しみを与えてくれます。
ビレッジではつねに何らかの読書会が行われています。多くの場合、お互いに声を出して読み合うことから始めます。自分の声、人の声を聴くこと、それは何よりの癒しになると感じています。たしかに読書の秋ですね。
ビレッジは村外向けの参加自由のイベントもあります。興味を持ったらぜひいらしてくださいね。
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【第28回:沈黙を読む~詩の読書会】
*多くの人が詩を「わかるかどうか」という視点で読んでいる。感想を交わすときもそうだ。意味が理解できるかどうか。それなら著者に「この詩は何を言いたいのでしょうか?」と聞けばいい。著者は苦笑いするしかない。言葉で説明できることなら、詩にする必要などないからだ。
言葉で説明できないことを言葉にする、詩はその代表だ。本人にも説明不能だからその形にしかできない。そこに必然がある。それは未知への問いかけで、個人的な述懐を超えた普遍的なものへの憧憬である。嘆息するしかないときには、嘆息が詩になることもある。
電気製品の取り扱い説明書は、わかりやすくなければならない。目で読んで頭で理解して、正確に使用するための文章が求められる。それに対し、詩は作者の心の説明書ではない。それなら「私はこう思っていて、こういうことが伝えたいのです」と言えばいい。それは他の場でやっている。
絵でも、ダンスでも、散文でも、会話でもない、詩でしかないからそうするのだ。言語表現ゆえに紛らわしいのだが、ほかの言葉で置き換えできないから詩なのだ。
毎週土曜日、4回にわたる鎌田東二さんの詩集『いのちの帰趨』(港の人)の読書会がビレッジで始まった。(癌遊詩人を名乗る)末期癌の著者の最新詩集であり、そこには遺言のような生と死の境目を探求する言葉が並ぶ。一筋縄ではない。読む側の私たちは、どっぷり生の世界に浸ったまま、多くは安心な場所にいて読んでいるからだ。
最初の一編「指先に次ぐ」は、のっけから「指先に告ぐ 死期を語らしめよ」である。言葉を受け止める体勢が整わず不意打ちに戸惑う。「読む私はどこにいるのか」それを直截に問うてくる。
私も詩を書く。いちばん多く書くのは、死に近い領域に身を置いたときだ。読み返すたびそれは、「死ぬまで生きよ、死ぬまで生きよ」と言ってくる。しかも死の側から囁きかける。振り返ってはならない、死を見つめて進まねばならない、生き続けなければならないのだ。
しかしそれだけの切実さを欠いたまま、のうのうと生活している私は、すでに亡き幾人かの詩人の言葉を読む。八木重吉であり、高見順、ジョセフ・ラヴ、山尾三省、アントニー・デ・メロ。少し落ち着いてくる。私たちは死屍累々の沃土の上に生きているのだと。言葉は自らを葬ってこそ甦る。それは沈黙の土壌に蘇生する。詩の言葉は沈黙が栄養なのだ。
鎌田さんの詩を読み始めて、改めて死とともにあること、死者と共に生きることに思いを向けている。彼ははるかみぞれ降る峠に歩を進め、そこからいのちの来し方行く末を見つめて、私たちに投げ返してくるのだ。あなたは今どこにいるのか?と。
それは巨大な言葉の雨雲となって、私の上空に問いを降らせてくる。詩は、巨大な問いである。そして尽きない謎である。
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*毎月のスケジュールはこちら(ときおり変更もあるので、必ず以下から確認してください)
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