島田 啓介さんの寺子屋 第5回目「もしあなたが詩人ならば」
(第二、第四水曜日20時~開催されている「島田啓介さんの寺子屋:『ティク・ナット・ハンの般若心経』を読む」第5回目の開催レポートです。山田直さんが寄稿してくださいました。)
「ティク・ナット・ハンの般若心経」を読み解く島田 啓介さんの寺子屋。
今回はようやく第一章目の「インタービーイング」ー相即相入ー へ・・・。
こんなインタービーイング(相互存在)の説明から、般若心経の核心、空、非二元性を説いている大事な第一章は始まります。そして「詩人とはなんでしょう?」という問いかけが、ダーさん(島田 啓介さん)から入ります。
紙の中に雲を見るために
紙の中に雲を見るためには、ただ視覚的に目で見るだけではできない。また論理的に頭で考えても見えてこない。必要なのは、その縁に思いを寄せ、その中にある存在の輪郭をはっきりと感じ取ること。それは詩人が世界を全身で知覚し、味わいながら言葉に変換するような表現に近いそうです。
言葉は良いとか悪いとかいった二元性の道具(常見・断見)だから、非二元性のような「有って無きもの」を描けないという矛盾にぶつかりますが、論理的な構成や意味性を手放している詩人には、それを具現化できる可能性があると告げているのでしょう。
そういう意味で般若心経を読み解くには、頭で理解するものではなく、詩の朗読のような身体感覚を使って論理を手放すプロセスが大事なのだそうです。
「お経は、言葉では言えないことを言葉で表そうとするとどうなるのか? というチャレンジだ」というダーさんの言葉が響きます。
読経から感じたこと
そして毎回行っている、参加者全員での般若心経の読経。一斉に唱えるのですが、オンライン特有のズレが起こり、それが現れては消える泡のような「無常感」を感じさせます。そのはかない波が重なって、入り混じって、最後には静寂が訪れて閉じていく。その余韻の中で生まれる、身体感覚で湧き上がる安らぎ。幸福感。それは詩のそれを共有することと同じなのでしょう。
インタービーイングは、存在することー「有」と、存在しないことー「無」という二元的な概念を超えたところまで私たちを運び、「無」を恐れなくてすむように助けてくれるそうです。それはすなわち、生と死という最大の二元性を超えて死を恐れなくてすむようになることでしょう。
そんな般若心経の核心部分を、冒頭の第一章に構成するティク・ナット・ハン師の凄み、思いをこの本からひしひしと感じます。そしてそれがここからさらに深く展開していくんだという驚きが、これからの絶えない好奇心へとなりそうです。