休日のための教育
タイトルのこの言葉は『「生存競争」教育への反抗』(神代健彦氏)の著書に出てくる言葉です。本の帯には「クラス全員を小さな企業家に育てる教育。・・・正気ですか?」と書かれていて、コンピテンシーを中心とした教育の潮流に一石を投じる本となっています。
ただ、過激なキャッチコピーとは違って、本著は、教育について立ち止まって考えるキッカケを与えてくれる本というのが私の読後の感想です。
著者は、コンピテンシー偏重の教育に対して、「際限なく純粋に、際限なく高度になっていくコンピテンシー論は、人間の善き生を定義してしまっていて、そのことが現実の子どもを苦しめ、教育を窮屈にしてしまっているのではないか」と警鐘を鳴らします。その上で、著者は、教育を「世界(コンテンツ)と出会う」場であると位置付けています。
学習者を、ほかの誰かが世界との関わりのなかで見出し、あるいは作り出した知や文化といった価値と出会わせる。そのような教科を、「小さな企業家」としての力(コンピテンシー)を養成するための単なる媒介物、夾雑物としてただ合理的に通り過ぎるということの「もったいなさ」に、わたしたちの社会はもう少し思いを致すべきではないか。
教育(教科教育)の本質を「国語の授業を通して、豊かな日本語の世界に出会わせる。算数・数学の授業を通して、抽象的な数や形の世界に出会わせる。理科の授業を通して、自然や科学の世界に出会わせる。」ことであると論じています。この辺りの考え方は、本著でも触れられているように、新学習指導要領が大切にしている「教科の見方・考え方」というコンセプトにつながるものであり、先日、投稿させてもらった『村を育てる学力』(東井義雄氏)と共通する考え方だと思います。
その上で、著者は「働くこと(平日)の役に立つことを、あえて拒否するわけではない」「生き抜くために働く、その力(コンピテンシー)を子どもたちに保障することの必要性を看過するわけでは決してない」と前置きした上で、「人間は、働く存在、生産者、価値の創造者としてあるだけではない」として、「休日のための教育」を大切にすべきであると語っています。
そのことが、休日や老後を豊かに過ごすことに繋がり、価値を理解できる消費者を育てることで経済循環にも資すると指摘しています。
これは、今まで学校教育を考える上で、私にはなかった視点でした。この視点は、将来の子どもの生きる力を育むことや経済活動を含む未来の社会形成に過度の責任を求められがちな学校教育の肩の荷を下ろしてくれるとともに、教育の可能性を広げてくれるという点で、大切な視座ではないでしょうか。
私は、現在は「教育」よりも「学習」に価値が大きく置かれている時代だと感じています。その背景には、情報化社会の進展が大きく影響していると私は分析していて、自ら学ぼうと思えば、ユーチューブに配信されている教育系の動画から学ぶことができますし、グーグルで検索すればあらゆる情報にアクセスすることができる時代の影響から学校も逃れることはできません。
けれど、生徒が自由な意志で膨大な量の情報を取捨選択して学ぶ場合にも、自分の普段の生活や既存の興味関心という枠組みからは逃れならないのだと、学習ではなく教育が持つ価値観とは、生徒の普段の生活では出会うことのない別の角度から、ノイズを与えて世界を広げることなのだと、この本を読んで気付かされました。
そんな気付きを与えてくれた本著に書かれている「教えることの再発見」の一節を紹介して結びます。
「教える」とはそんな風にして、世界のうちにあって世界を構成している事物を、子どもの「適応」の関心の枠外からあえて差し込むことで、子どもの「自己」がものごとを既知のものへとおき換えていくプロセスに齟齬を起こさせ、「中断」させることを目指している。それは「自己」にとっては、既知のものへとスムーズにおき換え処理できないものとの出会いである。「自己」はそこで、自らの理解に服さない(わからない)という、世界の側からの「抵抗」を経験する。「わからない」とは、自分がまだ知らないことがそこにある、ということである。