「なんとなく」でも「ちゃんと」繋がっていられる世界「成瀬は天下を取りにいく」
話題沸騰!の見出しも決して大げさとは思えない、各方面から大注目の「成瀬シリーズ」。
成瀬がとびきりユニークで魅力的なキャラクターで、有無をいわせず物語に引き込まれる。
滋賀県人でなくても読んでいるうちに、うっかり江州音頭を踊れるんじゃないかと勘違いしそうな、地元密着ストーリーも楽しい。
そのほかにもこの小説が幅広い層に受け入れられている点はたくさん挙げられる。
私が何より好きなのは、同じ出来事が異なる登場人物の視点で書かれていることだ。それぞれの章で別のキャラクターが語り手となるため、同じ場面や出来事が違う視点で描写されているのだ。
たとえば、西武大津店閉店まで夕方のワイドショーの中継に映り込むことにした成瀬と島崎。島崎はツイッターを検索して、自分たちのことをつぶやいてくれる「タクロー」さんの存在を知る。成瀬に誘われ半ば成り行きでデパートに通ってテレビに映る島崎の心情と、「ライオンズ女子」がなんとなく気になり見守るタクロー。
起こっている出来事は同じでも、それぞれが感じていることは違う。
たとえば、島崎が転居することで、ゼゼカラが解散だと思い込む成瀬と、帰省した時にはまたやりたいな、と考えている島崎。いわば、二人の思いはすれ違っている。
成瀬と島崎は、じつはお互いを親友と呼び合うような関係ではない。幼稚園からの縁や、巻き込まれた形でのM-1出場といった「なんとなく」起こった出来事を通して「ちゃんと」友達でいられている。
相手がどう考えているかを思いやる気持ちは大切だし、「私もそう思ってた!」が人と人を繋いでる高揚感もすてきだけれど、いつも「わかる」や「おなじ」を求める必要はないんじゃないだほうか。
それこそツイッター(現X)などの登場で他人の日常の心情が目に見えるようになったせいで、私たちは「完全一致」でなければいけない、と無意識にプレッシャーを感じているのかもしれない。
成瀬と彼女を取り巻く「ふつう」の世界が心地よく、読後感の爽やかさにつながっていると思う。