「菜の花の沖」第三巻の巻 まつろわぬ民編
みなさんは「まつろわぬ民」という言葉を知っていますか。
「菜の花の沖」は、貧しかった淡路島の少年が故郷を飛び出し、神戸で船乗りの見習いからどんどん大きくなって、大きな船を何隻も手に入れ独立し、海運業を始めるストーリーです。
背景の、江戸時代当時のメインの航路は瀬戸内海と日本海。そのエリアでのほとんの商売は、先に商売を始めている人達に太刀打ちできないため、彼は蝦夷と大阪とのダイレクトな交易に夢を見出します。
この巻は、蝦夷の当時の描写であふれています。
圧倒的にアイヌ人が奴隷化されている。
そもそも、蝦夷とは。
司馬遼󠄁太郎は、この国の始まりからひも解きます。
大昔、日本は縄文人という狩猟採取で生活をしていた民族がいた。
その後、中国大陸で発展した「稲作文化」をもつ民族が日本にやってきた。
稲作文化は、鉄を加工する文化を持っていて、それにより、大地を開墾して、食料を作り、保存できるだけでなく、鉄でより強い武器も作り、社会も高度化した。
さらに高度化していく集団が、小さい共同体を吸収していく。
ろくな武器を持たず、集団ごとにバラバラな採取民族は、戦うか、逃げるか、農耕社会に組み込まれていくか、を選ぶことになる。
稲作文化は、どんどん勢力を広げていった。
いま日本人、日本文化、という時のベースになるのは、ここがルーツになるのだろう。
中世の関東、東北は、その勢力に反抗する部族が多かったそうだ。
日本で勢力を広げていった稲作文化の国家に対して、反抗する人間たちを野蛮で「まつろわぬ民」と言っていたという。
去年、石巻の歴史資料館に行った時にも、当時の政権側との戦いの歴史や、最終的に負けた話などが展示されていた。
その後、本州は江戸時代には平定されたようだ。
そして、北海道、蝦夷の話になる。
函館のある半島に、小さな松前藩というのがある。
そこが、北海道唯一の藩であり、蝦夷地(北海道)全部を管理している。
蝦夷で採れる肥料となるニシンや、中国大陸から遠くシベリアを経由してやってくる衣類は、本州で非常に人気があり、それをアイヌ人から集めて売ると、大きな利益を得る。
松前藩はその利益を独占したかった。
しかし、その才覚はない。
そこで近江商人がやって来る。
面倒くさいこと、たとえばアイヌ人に厳しい労働をさせて、商品を揃えることを近江商人にやらせて、松前藩はそのマージンを取る。
ものすごいシステムだ、と思うと同時に、今でも世界中は変わらないなあ、とも思う。
採取社会を農耕社会に変えていくのは、農耕トランスフォメーション。
今は、デジタルトランスフォメーションの時代だ。
トランスフォメーションされるたびに、 今までの生き方を捨てざるを得なくなる、貧しくなる人があふれる。
古今東西、トランスフォメーションに抵抗してきた人達もいたはず。
今の時代の「まつろわぬ民」とは、どんな人達だろうか。
世の中の常識が変わり、周りの人に白い目で目られても、惑わされず、真に大切な生き方を見失わず、自分の進む道を堂々と生きる人間が、「まつろわぬ民」ではないか、と思った。
いろんな時代の中で、まつろわぬ民は、したたかに形を変え生き延びて、いたんじゃないか。
菜の花の沖の主人公も、江戸時代の共同体のルールに納得できずに、廻船業という、まつろわぬ民としての生き方を選んだ。
酔っ払って書いてますが、長編小説の巻ごとの感想文は難しいですね。
今の日本には、まつろわぬ民の生き方をする人、
そして彼らを評価する視線がもう少し必要なのではと、ふと思いながら書いてみました。
ご拝読ありがとうございました。