家族のこと(母)②

今回も母親の話です。

併せて、前回同様、私自身の過去についても書いていきます。

前回は小学生までだったので、今回は中学生から高校生までの内容です。


小学校の担任については前回触れましたが、中学校の担任は、新任の男性体育教師でした。

剣道部の顧問で、生徒の間では「怖い先生」と言われており、副担任の経験はあったものの担任は初めてだったようです。


当時はコンプライアンスや体罰とは無縁の時代だったので、この体育教師もよく怒り、手を出すことも多かったです。


前回書きましたが、小学生の頃の私は、すぐにいじけて泣きわめく子供でした。

中学生になってからは人前で泣きわめくことはなかったのですが、中学一年の時、何かのきっかけでこの体育教師の怒りを買い、ホームルーム中に突然殴られ、剣道場に連れて行かれ、怒鳴られた記憶があります。

後にも先にも、この教師から自分だけ一方的に怒られたのはこの時だけでした。

なぜ怒られたのか全く分からず、理不尽に殴られ怒鳴られ、小学生の頃のように泣きわめいていました。

中学進学後はクラスの中で泣くようなことはなかったのに、この体育教師のせいでまたクラスの中で泣いてしまった。。。と落胆したことを覚えています。


それ以降、私は人前で泣いた記憶がありません。
感動の涙も人前では流したことがないです。

小学校高学年から、泣くことで感情表現をしてきましたが、ここから「感情的になってはいけない」と自分の感情に蓋をするようになります。

先に自身の感情について書きましたが、ここからは母のことの続きを書いていきます。


中学生の頃は、母とはあまり話をした記憶がありません。
私が中学2年のときに、兄は高校3年生で大学受験前であり、家庭内は兄の受験勉強を最優先してピリピリしていました。

兄が通っていた高校は、学区内で一番の進学校だったので、良い大学に行かせたいという母の気持ちがあったのでしょう。

中学2年の自分にとっては、居心地の悪い自宅にいるより、外に遊びに行った方が楽しかったので、同級生や部活の友達といつも遊んでいました。

小学校の頃はいじめられたり辛い学校生活でしたが、体育教師から理不尽に怒られて泣いた後からは、クラスの中で楽しい学校生活を過ごしていました。

中学3年のときに、兄が進学で実家を出たため、母は「ようやく息子が一人前になった」と安堵したようです。

兄は、中学入学当初成績が悪く、そこから猛勉強して学区内一番の高校へ進学しので、母にとっては応援したい気持ちが強かったのでしょう。

自分は、もともと小学生の時から学校の成績が良く、中学時代も好成績を維持しており、小学校のときには違ってクラスの友達としょっちゅう遊んでいたので、母から何の心配もされていなかったようです。


中学卒業後、兄と同じ高校に進学したのですが、学区内一番の進学校の中では、自分の成績は遙かに下であり、入学して早々に落ちこぼれになっていきます。

最初のテストで倫理27点という最下位を取り、高校2年の時には数学0点という赤点を取りました。

高校に入ってから母はますます自分に関心がなくなり、自分も部活の吹奏楽に明け暮れ、土日も朝から晩まで部活三昧だったので、母は自由気ままに生活していました。

さすがに外泊はなかったですが、私が一人でご飯を食べる機会は多くありました。
帰宅したら「今日は遅くなります」と書き置きしていたこともあり、冷蔵庫の中のものを適当に調理して食べていました。


ここ最近は休職で時間の余裕もあるため、自炊率が増えていますが、それ以外でよく料理をしていたのは、この高校生の頃でした。
まぁ材料を自分で買っていたのではなく、冷蔵庫の中のものを勝手に使っていただけなので、自炊とはちょっと違うかもしれません。


このように高校生の時には母とあまりコミュニケーションを取っていなかったのですが、母が男性と出掛けていることはなんとなく気づいていました。
どこで知り合ったのか、どんな人なのか詳しくは訊きませんでしたが、息子としては、離婚して独身の身の母がどのように過ごすかは母の勝手であり、子供に迷惑を掛けなければ別に良いと思っていました。

母も私のそういった考えを分かっていたのか、特に隠そうとすることもなく、「デート?」と訊くと「うん」と答えていました。

ここまでの話だと、母との関係は悪くないように見えます。
実際、この時までは母との関係は安定していました。


母と本格的に対立しはじめたのは、高校2年のとき、進路について話をした頃です。

自分は、進学校に在籍していたものの成績が悪く、兄のように大学進学できる状態ではないことは分かっていました。
また、学校の誰もが当たり前のように大学受験をして大学に行く、という雰囲気が嫌でした。


そのため、全く別の道を志すことを考えていました。
それは、ずっと好きだった音楽でもなく、ゲームでもなく、「お笑いタレントになりたい」というものでした。


当時はダウンタウンが全国的に流行しており、関西弁で次々と笑いを取っていくスタイルは、自分にとって憧れの存在でした。
NSCがあることを知り、卒業後はお笑いの道に進みたいと考えていました。


母には恐らく反対されるだろうと思っていました。

ところが母は「あなたがどの道に進もうが自由」としか言いませんでした。
母からすると、もう高校生なんだからどの道に進もうと本人の自由を尊重したかったからだそうです。


しかし、自分としては、一人の大人として、導いて欲しかったんだと思います。


一般的な親であれば、恐らく反対するでしょう。
もしくは「とりあえず大学に行って、そこから考えても良いのではないか」と提案するかもしれません。

後々、母とやり取りをしていく中で、母が反対しなかったのは「あなたの考えを尊重したかった」ということだったのですが、ここで前述の「とりあえず大学に行ってそこからでも良いのでは」と提案しなかった理由が分かることになります。


高校2年の頃、進路について母と話をしていた時、母は「うちにはお金がない。あなたを進学させるお金がない」と言われました。


母の話では「兄の時には余裕があって大学に行かせられたが、今はもう余裕がなくなってしまい、あなたを進学させるお金がない。だから、あなたが何をしようと反対する気はない。ただ、お金は出せない」ということでした。


これは本当にショックでした。
兄は都内の大学に進学して一人暮らしをしており、自分も卒業後は同じように学生生活を送れるだろうと考えていた中、突然「何もできない」と言われてしまったのです。


そのような状況であれば、お笑いの道に進みたいなどと言う息子の進路に反対できないのは当然です。
「反対はしないから、自分で勝手にやりなさい」と言われているような気分でした。


当然、納得いかず母と何度も衝突しましたが、ないものはない、お金がない、の一点張りでした。

ならなぜ高校に入ってすぐに言わなかったのか。
進路の話になって、自分が「お笑いをやりたい」と言ってから、後出しのように「お金がないからあなたの好きにしなさい」というのは卑怯ではないか。


様々な感情が巡り、以降母を信用できなくなっていきます。

今回はここまでにします。
次回は、高校卒業以降のことを書いていきます。

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