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ハードルを下げる仕事 〜始める/転ぶ/はみ出す/辞める〜

ハードルを下げる仕事

音楽やら竹細工やら中国語やら、一見統一性のない様々な仕事を生業にしているため、どうにも怪しい目で見られがちな私だが、実はどの仕事にも通底するものがあることに気づいた。

私がやっているのは、「ハードルを下げる仕事」であった。

同じような言葉で「バリアフリー」という言葉があるが、どうもしっくり来ない。なぜなら、「バリアフリー」という言葉には、様々な障壁を有無だけで論じるような乱暴さが付き纏うからだ。

だからあえてここは「ハードル」という言葉を使う。ハードルはそもそも高さ調整が可能だし、なんなら下をくぐることだってできる。ちなみに私の座右の銘は「ハードルは高ければ高いほど、くぐりやすい」だ。

本邦は、一見自由な国のように見えて(昨今はそうも見えなくなってきているが)、高低様々なハードルに満ちている。

しかし大抵の人はそのハードルの存在にすら気づかないまま、高いハードルを前に黙って踵を返す。自己責任由来の諦念を抱きつつ、静かに目を背ける。

ハードルの主成分は、呪いである。

言葉や風景や人や知識といった過去の集積が呪いとして結晶化し、ハードルとして実体化し、行く先々に聳え立つ。おやおやこんな隘路にもハードルが。

となると「ハードルを下げる仕事」は勢い「呪いを解く仕事」に近接する。確かにそういう側面も多分にある。だが呪いを解けるのは、別の呪いだけであるような気もするし、何より呪いという言葉を使った途端、それ自体がまた呪いとして機能してしまう恐れもあるので、やはり「ハードルを下げる仕事」で行こうと思う。

いやいやハードルとか呪いとか、そんなもんないでしょ…私は自由に楽しく暮らしてますけど…

なるほど。それはそれで結構なことかもしれない。

だが私はそうは思わない。この国には、確かに、ハードルが溢れている。

具体的に見ていこう。


①始めるハードル

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私は、二胡という中国の楽器を教えている。経験者だけでなく初心者にも教えている。

何らかのきっかけがあって、他でもない二胡という楽器に興味が湧き、さらに、聴くだけではなく自分も弾いてみたいという意思が芽生え、ネットやら口コミやらで私を見つけ出して、私のところに辿り着いてくれた人がいる。

もうこれだけでほぼ奇跡に思えるほど得難いと私は思うのだが、彼らが私のところに来て口にすることは決まっている。

楽器経験がないんです
楽譜読めないんです
音感がないんです
音痴なんです
指が短いんです

ほぼ間違いなく自分に関する「ネガティブ・プレゼン」から入る。「いかに自分には向いていないか」「いかに高いハードルが立ちはだかっているか」ということを、私に渾々と言い聞かせてくれる。

だが私の仕事は「ハードルを下げる仕事」である。「始めるハードル」で躓いてはいられない。

音楽経験なんて要らないです。楽譜が読めない音楽家もいます。音感ってなんですか。音痴ってなんですか。指が短いなら千金を下げれば押さえる指の間は短くなりますよ。

徹底的にひとつひとつの「プレゼン」にツッコミを入れる。わざわざ私のところに来ている時点で「プレゼン」というより「ツッコミ待ち」の「ボケ」に近いので、ひとつもスルーせずにちゃんとツッコむ。

これは、できそうでなかなかできないことである。

その道のプロは、自覚の有無を問わず、「ハードルを上げる仕事」に従事していることが非常に多いからだ。

それは業界への参入障壁を上げるためだけでなく、自らが舐めた辛酸を他者にも同じように舐めさせるべく、無駄にハードルを上げたがる傾向がある。

だからせっかく芽生えた興味や意思の芽を、プロが摘み取ることも少なくない。ただでさえ不安に駆られてネガティブプレゼンを行ってしまうのに、あろうことかツッコミを入れずに、首肯してしまったりする。

たしかに音感がなければ厳しいかもしれません。
たしかに指が短いなら別の楽器をやった方がいいですね。

「ハードルを上げる仕事」に終始しているプロに限って、人材不足に不満を漏らしたり、自らの仕事に対する無理解を嘆いたりするが、自ら無意識のうちにその芽を摘み取っていることに気づく人は皆無である。

だがよくよく考えればわかることだが、何かを始めるのに、資格、適性、動機、そんなものは要らない。

場合によっては興味も意思もなくてもいい。

私のところに二胡を習いに来た。

この事実だけで十分すぎる。というか、この時点ですでにもう始まっている

すでに始まってるものを、「始めるハードル」を上げることで頓挫させるなんて、なんて罪深い!と私は思う。

②転ぶハードル

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「始めるハードル」を運良く越えることができても油断はできない。

今度は「転ぶハードル」が立ちはだかる。

これはとりわけ日本では理解されにくいハードルだと思うが、海外に目を向けると分かりやすい。

欧米では起業したが業績不振で会社を畳んだ経験は、「経歴」として評価される。しかし日本では、「汚点」「」として減点対象だ。

私が通っていた竹細工の訓練校の例を挙げよう。

竹細工の技能を学ぶための職業訓練校である以上、学びを最大化することが至上命題だと私は思っていた。そして、学びを最大化する方法として最も効果的なのは「転ぶ機会を増やすこと」である。

だが悲しいかな、学ぶための訓練校ですらも「転ぶハードル」は非常に高かった。

転ぶと足並みが乱れること。転ぶことで仕上がったものの品質にばらつきが出ること。そして極め付けは、転ばせた先生が評価されず、むしろ叱責されること。

そんな種々の理由で、なるべく転ばせないように、訓練は進んだ。

だが私は抗った。

学ぶためにはるばる単身別府に渡ったのである。転ばずにスマートに得た学びなど心許ないことこの上ない。

だから私は先生の言うことを聞かずに七転八倒を続けた。白眼視などどこ吹く風で、こてんこてんと転び続けた。結果として、多くの学びがあった。

竹細工にせよ音楽にせよ中国語にせよ、私のところに学びを求めてくる人は多い。

私はみなの学びを最大化させるために、「転ぶハードル」をできる限り下げる。転ぶことを両手を上げて推奨する。致命傷にならない限り、どんどん転んでください、立ち上がる手助けは必ずします、と笑いながら。

だが、いわゆる教育者は「転ぶハードル」を上げることを自身の仕事と看做している人が多い。なるべく転ばずに、なるべくスマートに学ばせてこそプロの教育者、とばかりに。モンスター化する保護者や受け身一辺倒な学習者が増えたことで、その傾向は強まる一方だ。

それでも私は「転ぶハードル」を下げる。

転んだ結果恨めしげな涙目で見られたとしても、転んでもらうことをやめない。それが私の仕事だから。

③はみ出すハードル

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かつて私は、とある法人に応募した際に、志望動機として「はみ出す自由」について書いた。

本文より抜粋する。

つまりそれは,「規律に満ちた健全かつ規則正しい生活からはみ出す自由」です。卑近な例(しかないですが・・・)で言えば,「休みの日,何をするでもなくぼっーっと空を見ながら一日無為に過ごす自由」とか「夜中に無性にラーメンが食べたくなって,近くの店に駆け込んで一心にラーメンをズルズルすする自由」とか「ウィンドウショッピングのつもりで街に繰り出したら、ふと目に入った雑貨がひどく気に入ってしまって,それを買って帰って,窓際に置いて寝る前に眺めながらひとりほくそえむ自由」とか,そうした些細ではあるけれど,日常生活における充実感(いま私がここに生きているという実感)の大半を占めていると思えるような「はみ出す自由」が,案外私のこころの平穏を保つ砦だったりすることに,ごく最近気がつきました。

予定や想定、日程や日課、規範や規則に縛られた世の中で、その外にはみ出すのは容易ではない。同調圧力がスペシャリティーである日本においては「はみ出すハードル」はいつも高い。

そして大抵の人は「はみ出したら死ぬ」と固く信じていて、その信憑が結晶化して堆く積み上がると、そこにハードルが出現する。

実際、はみ出したが最後、規範や価値観によって敷設されたレールには戻れない、という社会ががっちりと出来上がっている以上、それはある意味「死」なのかもしれない。

だが私の実感は違った。

小まめにはみ出し続けてきた私だが、昨年4月に40歳でサラリーマンというレールからはみ出してフリーとなり、名実ともに「はみ出し横綱」となった。

ずっとサラリーマンだった父を見て育ったこともあり、それこそ社会的に死んだかと思った。

だが違った。

むしろ「生まれた」という強烈な実感がある。

齢四十にして、ようやっと自分の足で立てたような充足感がある。別の看板を背負わなくていい。別の人間を演じなくていい。自らの生を生きるというのはこういうことか、と今更ながら理解した。

誰しもがはみ出すべきだと言いたいわけではない。はみ出さずに生きられるならそれに越したことはない。

だが、実際ははみ出しているにも関わらず、「はみ出すハードル」の高さによって、「はみ出す自分」を押し殺し、まるではみ出してないかのように振る舞いながら生きている人が、かなりいる。

そういう人たちに向けて、私は「はみ出し横綱」として嬉しそうにシコを踏む姿を見せることで、「はみ出すハードル」を下げられないかと考えている。


④辞めるハードル

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辞めたいのに、辞められない…

学校、部活、習い事、仕事、結婚生活などなど、そこいら中でこんなボヤキが漏れ聞こえる社会は、間違いなく「辞めるハードル」が高い。

なぜ辞められないのか。

それは案外単純で、継続は力なり的な「続ける美徳」と、三日坊主的な「辞める恥」が、手に手を携えて「辞めるハードル」をこれでもかと押し上げる。

辞めるハードル」の高い社会においては、皮肉なことに、ある絶望的な選択が救いとして機能する。

それは「人間を辞める」という選択だ。

それは、自ら命を絶つ自死だけではなく、思考や感情を極限まで鈍麻させ、人間らしさを放擲したゾンビのような生き方も含む。

逆に言えば、「辞めるハードル」が下がれば、「人間を辞める」という選択は救いになどならない。

何かを辞めるのに、本来理由など要らない。

身体や心が辞めたがっているなら、理由など判然としないままで辞めればいい。

「辞める理由」をわざわざ言語化させる暴力がまた「辞めるハードル」を押し上げる。

それでも私は「辞めるハードル」を下げにかかる。「辞めるから辞める」で一向に構わない。トートロジーだ、同語反復だ、意味不明だ、ええい、やかましい。人間を辞めさせようとするな。

絡み合うハードル

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始めたら、節操ない。

転んだら、情けない。

はみ出したら、みっともない。

辞めたら、堪え性ない。

僕らの生きるこの社会では、どの方向を向いても、呪いでできた種々のハードルが聳え立つ。しかもそれぞれのハードルが複雑に絡み合っていて、あるハードルを下げたら、別のハードルが上がる、なんてこともしばしばで、本当はみんなで息を合わせて、せーので同時に全てのハードルのネジを緩めるのが一番いい。

でもそんなの無理なの、分かってる。

だからせめて、私の手の届く範囲だけでいいから、手当たり次第ハードルを下げにかかる。

始めたって、転んだって、はみ出したって、辞めたって、いいんだよ、全然いいんだよ、と身をもって自分に世界に伝え続ける。

そのために、というわけでも本当はないけど、

今日も今日とて、わたくしは

気の赴くままに嬉々として、

唐突に始め、

時に転び、

しばしばはみ出し、

軽やかに辞める。

そうですそうです

「ハードルを下げる仕事」を全うするためにね。



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竹遊亭田楽
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