竹遊亭田楽

45歳三児の父。房総竹部部長。バンブリーナ普及委員会主宰。竹と音楽で生きていく。楽しくないことはやらない。

竹遊亭田楽

45歳三児の父。房総竹部部長。バンブリーナ普及委員会主宰。竹と音楽で生きていく。楽しくないことはやらない。

マガジン

  • おっさんバレエ奮闘記

    ひょんなことから42歳でクラシックバレエを始めることになった私。運動神経なし、バランス感覚なし、柔軟性なしのないない尽くしのなか、バレエを生業にすることはできるのか?!

  • 唄工房デンガクズ

    一曲100円で曲作りを請け負うサービス「唄工房デンガクズ」。紆余曲折に満ちるであろう、その歩みを丹念に記録していこうと思う。

  • 40歳父の竹修行奮闘記

    とあるきっかけで、別府で竹細工を2年間学ぶことになった私。39歳三児の父。どんな波乱が待ち受けているのか。竹細工の技能は習得できるのか。不安はつきないが学んでみないことには分からない。 2年間に及ぶ汗と涙の修行の全記録、となるよう、リアルタイムで毎週土曜日更新予定。

  • ふらっと短歌

    シャープではなく、あくまでふらっと立ち寄る居酒屋のような心安さで、日常の機微を五七五七七のリズムとグルーヴに乗せて。

  • 五喜弦ギター

最近の記事

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素人と玄人を架橋する「灰人(グレート)」な私

素人と玄人の間の分断は深刻さを増している。 玄人は、素人の無知無能を嗤い、素人の浅はかさを侮り、素人の不真面目さにため息をつく。 素人は、玄人の傲慢さを蔑み、玄人の狭量さを誹り、玄人の優位性に疑いの目を向ける。 なかなかもって嘆かわしい事態である。 本日も竹を割りながら、その分断のもたらす悲劇に思いを馳せむせび泣いていたところ、ある妄念がぽかりと浮かんだ。 素人と玄人を架橋する灰人(グレート)「しろうと」と「くろうと」の間だから「グレート」。竹を割る手元が狂い出血す

    • 「笑顔」不要論

      単に「苦しそうな顔」より「苦しそうな笑顔」の方が、よほど苦しい。 せめて「苦しそうな顔」をしてくれれば安心して心配できるのに、「苦しそうな笑顔」はそれをも許してくれない。だからより苦しい。 苦しさの本質はいつも、「苦しさを表に出せない苦しさ」だ。 「笑顔が共通言語」みたいな、地獄のようなお花畑がある。そこでは、かりそめの「仲良し」と「幸せ」と「癒し」を享受するため、みなが一様に「苦しそうな笑顔」を浮かべる。 苦しい。 無理くり引き上げられた口角と、仕方なく細められた

      • 「わかった」の多義性

        中国語を学ぶと、日本語の「わかった」の意味の多さに気づく。中国語は「わかった」を細かく分けるからだ。(以下のポスト参照) 言語間で優劣を付けるのは野暮な話ではあるけれど、言語が社会や関係を作るという側面は確実にある。いささか乱暴かもしれないが、日本社会の病理は、日本語に端を発している、というのが私の見立てだ。 様々にレベルや位相や内容の違う「わかった」を、ひとつの「わかった」に押し込んでしまっていることが、実は「誤解」の元であるにも関わらず、双方が言語的に「わかった」を一

        • 「竹林整備」考

          今日は「竹林整備」について。 自分ちの庭木を切ってもらうならちゃんとお金払うのに、「竹林整備」となると無償の「ボランティア」が当たり前なのはなんなのだろう。 地域の草刈りを地域の人たちが無償でやるのはまだ分かる。地域の人たち自身に恩恵のあることだから。 でも「竹林整備」は、地域に住んでるわけでもない、整備して恩恵に預かるわけでもない人たちが、無償で行うのが当たり前になっている。 「無償であっても、本人の意思で行っているのだから、目くじら立てなくてもいいのでは?」 そ

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          2本
        • 唄工房デンガクズ
          13本
        • 40歳父の竹修行奮闘記
          40本
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          79本
        • 五喜弦ギター
          9本
        • 俺の音楽変歴
          9本

        記事

          台湾ドラマ「聽海湧(邦題「海の音色」)」を観て

          竹を学ぶために台湾に来ている。 ここ二晩連続で、「聽海湧(放題「海の音色」)というドラマ(全5話)を台湾朋友であるAyaに誘われて共に観た。先月台湾で放映されたばかりの新しい作品だ。日本では今のところ視聴できない。 時は太平洋戦争終戦前、舞台は北ボルネオ島の捕虜収容所。 主人公は、台湾から「日本人」として従軍した、3兄弟(新海暁、新海志遠、新海木徳)。 舞台となる捕虜収容所で発生した、捕虜の大量虐殺事件をめぐって、戦後オーストラリアによって裁判が開かれ、真相が明らかに

          台湾ドラマ「聽海湧(邦題「海の音色」)」を観て

          汝、チョロ給うこと勿れ

          耳障りこそいいけれど内容ゼロの糞ポエムにコロッと行っちゃう「チョロい人」を見るたびに、ちゃんとした文章を読むことの重要性に気付かされる。読解力は、今やサバイバル能力だ。 「チョロい人」はいつも狙われる。いつも騙くらかされる。でも本人は気づかない。むしろ自分だけが、知られざる「重大な真実」に気づいた、と錯覚して、せっせと拡散して回る。みんな目を覚まして!みんな騙されてるんだよ! チョロい。 なんてチョロさだ。 チョロQもびっくりのチョロさだ。 そのシェアばかりの情報発信は

          汝、チョロ給うこと勿れ

          「竹あかり」なのに竹じゃない?!

          切った筒状の竹に穴を開けて中に灯りをともす「竹あかり」、色んな地域でやってて、今や「竹の利活用」の代表格とも言える活用法として、多くの人に親しまれている。 そのトップランナーとも言える方々がいて(情熱大陸にも取り上げられてた)、その大規模展示の一部の材料が、どうも竹を使ってないようで。 おそらく塩ビ管を使ってる。 それを「竹あかり」と銘打っているわけだ。 これは正直、首を傾げざるを得ない。 竹かごに置き換えて考えてみるとよく分かる。 梱包用のプラスチック製のPPバ

          「竹あかり」なのに竹じゃない?!

          竹との邂逅

          動機というより、それは衝動に近かった。 あれは今から6年前、39歳になりたての私は、半ば衝動的に、竹の世界に足を踏み入れた。 大分県立竹工芸訓練センター。 日本唯一の竹細工に特化した職業訓練校に、私は入校した。 選考の面接では、それらしい「動機」を並べ立てたものの、そんなのすべてヨソユキに飾り立てた綺麗事で、実感としては、言語以前の「衝動」に近いものだった。言葉にならない、擬音のような、身体の叫びのような何かに、突き上げられただけだった。 しかし周りはさぞかし驚いた

          「しなかった」で失われる信頼

          「何かをした」ことで、一瞬で失われる信頼がある一方で、「何かをしなかった」ことで、ゆっくりと確実に失われていく信頼もある。 前者はまだいい。本人にも心当たりがある場合が多いから。 後者はタチが悪い。「しなかった」ことは「しなかった本人」の意識に前傾化しにくく、しかも時間をかけて相手の中で不信が蓄積していくため、それをきっかけに相手から関係を切られたとしたら、それは「しなかった本人」からすれば、「青天の霹靂」である場合が多い。 「私が何をしたって言うんだ?!」 「何かあっ

          「しなかった」で失われる信頼

          「驚いた顔」から分かること

          最近気づいたこと。 私がある人を「“信用できる“と感じるかどうか」は、そのある人の顔を思い浮かべた時に「“驚いた顔”が思い浮かぶかどうか」とほぼイコールだ。 「信用できない」と感じる人の顔には大抵、得体のしれない「笑顔」が張り付いていて、「驚いた顔」が想像できない。 「驚く」ということは、「不意を突かれる」ということで、「不意を突かれる」ということは「隙がある」ということで、「隙がある」ということは「開けっぴろげ」ということで、どうやら私は「開けっぴろげ」な人を信用でき

          「驚いた顔」から分かること

          誰が私を支えてくれるのか

          豆腐を売りまくってた10年前今から10年くらい前、豆腐の移動販売の仕事をしてた。 絹、木綿、寄せ、厚揚げ、がんも、ゆば、豆乳、おから、などなど、軽の冷蔵車に豆腐関係の商品をたくさん積んで、決まった5エリアを週一で回る仕事。もちろんパ〜プ〜とラッパを鳴らしながら。 給料は基本給があって、1日売り上げの平均が五万を超えたところからコミッション(つまり出来高)が発生するので、やればやっただけ稼げる仕事だった。 販売員としてデビューしてしばらくは順調に売り上げを伸ばしたが、数ヶ

          誰が私を支えてくれるのか

          「やべー奴」の「ヤバさ」を早期発見するために

          【「やべー奴」の「ヤバさ」を早期発見するために】 ガンでもなんでも早期発見が大事で、早めに気づけば浅くて済んだはずの傷だって、発見の遅れのせいで致命傷につながるリスクがある。 人との繋がりは、心身を健やかに保つ上で、「必須栄養素」であると私は考えているが、基本的に「誰と繋がるか」という選択は我々には用意されていない。出会いというのはあくまで偶然であって、「誰と出会うか」を選択することは原理的に不可能だ。 では人と繋がりを作る上で我々に選択できることは何もないかといえば、

          「やべー奴」の「ヤバさ」を早期発見するために

          「興味を持ってもらう」「世界にアピール」の雑さ

          先月、世界竹会議に出展しに台湾に行ってたのだけど、そこには同じ日本からはほぼ唯一、高知で竹製品の販売をやってる「竹虎」という会社の名物社長が来てた。彼を日本の竹関係者で知らない人はおそらくいない。 彼は、高知にしか生えてない「虎斑竹(とらふだけ)」というまだらな竹で作ったよろいカブトを身にまとい、これまた虎斑竹で編んだ装飾を施した電気自動車に乗る、という、私から見ると完全に意味不明なパフォーマンスを日々行っていた。 ということらしい。 作り手ではなくマーケッターでありセ

          「興味を持ってもらう」「世界にアピール」の雑さ

          「廃れる理由(新3K)」を放置する人たち

          かつては当たり前にあった技術が、時代の変化によって急速に失われている。それは私が生業としている竹細工もそうだし、茅葺き屋根、土壁、手作業での稲作、馬耕、井戸掘り、繊維作り、和裁などなど、たくさんある。 そしてそれぞれの分野において、そうした「かつての技術」を引き継ぐ、もしくは復活させようという取り組みがあるが、その大半はうまく行ってるように見えない。 なぜか。 その理由は大きく分けて三つある。それを「新3K」と呼んでみる。かつての3Kと言えば「きつい」「汚い」「危険」の

          「廃れる理由(新3K)」を放置する人たち

          “結果”としての「老後」を生きる

          ふと思った。 “ある時”まで、食べてきたもの、見てきた景色、嗅いできた香り、聴いてきた音、触れてきたもの、発してきた言葉、会ってきた人、過ごしてきた時間、沸き起こってきた感情、犯してきた失敗、流してきた汗と涙、 それらの“結果”が、「老後」なのではないか。 その“ある時”を境に、“結果”としての「老後」が始まるのではないか。 そしてその“ある時”がいつ来るかは、人によってはそれこそ40代であったり、また人によっては80代であったり、全く異なるのではないか。 “結果”

          “結果”としての「老後」を生きる

          「ほんとう」はいつも「身体」の方

          「いい」と思ってないことに「いいね」したり 「素敵」と思ってないことに「素敵」とコメントしたり、「美味しい」と思ってないものを「美味しい」と言ったり、「美しい」と思ってないことを「美しい」と言ったり、「好き」でもない人や場所やモノやコトを「好き」と言ったりするの、 本当に誰のためにも何のためにもならないし、むしろいろんな人やモノを傷つけたり損なったりするから、やめた方がいい。 とか書いたところで、 “自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ” とか茨木のり子を引用し

          「ほんとう」はいつも「身体」の方