抑圧からの回復プロセスと知る
過ぎ去ってみなければ、わからないものです。ひどく抑圧の中にいる渦中ならなおさら、自分が置かれている状況を客観的に見て理解するということはとても難しいことです。誰でも。
【不登校から回復までのプロセス】
不登校の回復のプロセスの一例として受け止めていただきたいのですが、それはモラル・ハラスメントからの回復のプロセス、虐待からの回復のプロセスと同じです。いずれも抑圧からの回復のプロセスなんですね。
学校に行けなくなった子を持つ親のプロセスはどんなものでしょうか
これらのステップは、それぞれ親自身の意識がどこに向いているかが違っています。
【家庭から相談を受けるタイミングはいつなのか】
このプロセスのなかで家庭が学校に相談する段階はどこにあらわれるでしょうか。
おそらく、家庭から助言を求めて相談しようと考えて学校に訪れ、先生に相談するのはこの期間です。
この前後あるいは後では、その行動ではちっとも前進しないと感じると学校以外の場所、フリースクールやフリースペース、居場所などの不登校支援者のいる場所に出会う時期にかかり、そのなかで多様な価値観に触れる機会が訪れます。
その間に自分が持っている「学校の価値」を意識し検討し、よりそれを強化しようとするならば、子どもにその価値観を受け容れるように強要することになります。こどもは「学校に行かない」ことで、やっと学校から避難したにも関わらず、親が周囲から責められている姿を目にしたり、自分も親から責められると「これはよくないことなのだ」と認識するに至り、自分を責め始めます。誰も守ってくれないことを嫌でも思い知らされるのです。
【こどもの時間が奪われている】
逆に、子が持つ「学校の価値」を修正するために親が働きかけることもあります。それが「学校は無理して行くところではないよ」といった言葉にあらわれます。学校に価値があるのではなく、学校をどのように活用するのか、それを考えることが重要であり、一緒に考える用意はあると伝えるのです。しかしながら「学校生活」にすっかりなじんでいる子どもにとって、学校や周囲から得た情報により自ら導き出した「学校に行かなければいけない」という価値観を変えるのは、かなり難しいものがあります。友達の存在や描いていた普通の自分の姿とその未来とはずっと異なるものになるからです。そして、それを喜んでいたはずの親の姿もよく知っていますから、そこから導き出したはずの「学校に行くべき」の価値観を修正するという作業は、もしかしたら初めての「価値観を変える」経験かもしれません。それまでは大抵、誰でも同じ価値観で、同じ答えを出すことで問題はなかったのですから。個人の「価値観」というものに初めて触れる機会だったかもしれません。
《価値観の変容》という成長のステップですが、大人とこどもではやや周囲の気持ちが違っている部分があります。それは大人はすでに社会人であり、価値観の変容があろうが、その社会的な位置づけはたいして変更がありません。「個人の価値観の問題」という言い方がされますが、それは周囲の人間が影響を受けたり、なにか迷惑だと感じるような変化が無いという前提でのことです。本来ならば「個人の価値観は尊重される」という社会通念のもとに、もし影響するようなことが起こっても、今度はその課題にたいして一緒に取り組めばよいことであって、個人の問題だとか迷惑だとかでおさめていいことではありませんね。波風が立つことや平常と異なる事情を忌み嫌う社会では、課題に取り組むスキルがなかなか育っていないのかもしれません。「問題」と位置づけて「問題は起こしてはならない」と共有していれば、互いにけん制してなにも起こさない集団が形成されるのでしょうから。
そんな大人の立場に対して、こどもの場合は、年齢というネックがあります。日本社会の社会通念にひどく根強くこびりついているのが年齢ごとによる肩書の絶対性です。年齢がすなわち学年を示し、「想定」の設定がほぼ誰に聞いても外れることがないのです。
大人であれば、価値観の変容のゆるやかな時間の変化を待っているという意識も無しに時間は進んでいけますが、こどもの場合はその時間があまりに固定されていて、「待つ」「耐える」などと周囲が意識しなければ、変容すなわち成長することがゆるされないほどのものになっています。大人にはゆるされる時間が、進学というタイミングを見据えて、こどもは暗黙のうちに時間制限を感じてしまいます。制限されることで、ますます価値観を変容することに集中する力は奪われ、まるで時間が止まっているかのようになってしまうかもしれません。いずれも社会構造に由来しているのだといえるのではないでしょうか。
【家庭と学校の関係性に反映する否定プロセスを引き受けてはいけない】
変容は、成長することです。
そして、成長と変容とは、以前の自分が居なくなることを意味します。ある側面から見れば「否定する」「消す」作業です。言葉面ではネガティブなこの作業に向かわなければ成しえないことなのです。
この変容のプロセスにおいて、親の変容はどのようなものでしょうか。
このとき、親個人が置かれたこの状況に対して、確かな同意が必要とされます。欠片たりとも疑いを生じさせるような態度は許されません。どうしても他者からの容認を求めてしまうのです。そのために仲間探しをし、そのために居場所探しをし、そのために違う価値観を持つ人に対して嫌悪感を示すことになります。なぜなら、自分自身のなかに「以前の価値観を否定している」自分がいて、現在進行形の自分を肯定し、価値観の変容という人生の一大プロジェクトを成功させないといけないからです。これに失敗すると、待っているのは挫折です。無力感が自分を覆うことになるのです。そのことを予感して、なにがなんでも、これは間違いではないことの証拠固めに懸命になります。信念に従っているようでいて、まだ脆いものです。
しかし、ここで間違ってしまいがちなことがあります。
学校の先生に、この価値観の変容の同意を求めることです。
学校の存在、先生が、以前の価値観そのものを具象化している対象だからです。これらが否定されないことには、前に進むことができないと考えてしまうのです。そうすることが目に見えてわかりやすいからではないでしょうか。自分自身の内側に問いかけることに慣れていないと、自分自身の課題であるはずのものを、現実の関係性に投影してしまうのではないでしょうか。本来なら、自身に問いかけ、自身で答えを出すべきもののはずが、外側に投影し、外側に反映した人間関係で、その作業を分かりやすく進めようとしてしまうのではないでしょうか。
私は思うのですが、この時に、家庭と学校の関係性の課題だと取り違えてしまうと、後々の関係修復が大変困難な方向に進みがちではないでしょうか。
よく価値観の変容のプロセスの途上にある親御さんから聞こえる言葉としてよく聞こえてくることは、私もそうでしたが、先生からのこのセリフです。
実際の家庭と学校の関係性の課題ではなく、個人の内面の課題を投影されていることを認識している場合であるならば、この受け答えはきっと適切なのでしょう。しかし相談している側とすれば、こんなにも不親切な対応は無いと感じます。なぜなら欲しいのは同意だからです。なんなら賛同と称賛です。しかし学校や先生の立場からすれば、こう答える以外に無いようにも思えます。なぜなら先生の立場で「学校の価値を否定する」ことはありえません。個人的な立場で中立で公正な対応することも、なかなかできることではありません。それは相手も、立場を横に置いて、中立で公正であることをよく理解しているのが条件となるからです。しかし、そのことを渦中にある多くの親は気づくことが難しいのです。その見極めは必要不可欠ですね。
もうこの時点で家庭と学校が、この件について話し合いの場を持っているという状況が生じる事態にも疑問を持っていいのかもしれません。それが不登校児童生徒とその家庭への対応をどうすればいいのかの課題と制度整備といえるのではないでしょうか。
家庭にとっても、学校と先生にとっても、この状態は負担なのです。明らかにこの時点ですでに第三者への介入もしくは第三者が引き受けている状況にないと、次のステップに進むことは、難しいと思えるのではないでしょか。カウンセラーの同席はもちろんのこと、家庭と先生と両方ともに、客観的な状況の分析を手伝ってくれる存在が必要なはずです。
【否定を学校との関係に爆発させない】
たとえば「不登校を選んだ」「ホームスクールを選んだ」「オルタナティブスクールを選んだ」「学校以外の多様なまなびを選んだ」という家庭には、「自己責任論」があてられがちです。本来の日本社会から考えうる自己責任とは、ひとりで結果のすべてを負うことは考えにくく、個に焦点をあてればそれは「結果を引き受けること」であり、「選択する覚悟」にさかのぼります。帰属する集団に焦点をあてればそれは「お互いさま」「たすけあい」「ささえあい」の精神につながります。ところが、昨今では新自由主義という正義のもとで、選択することもその結果を引き受けることも個人の好き勝手とみなされ、結果がどうなろうが、誰も助けの手を差し伸べることも、支えていくことも、理由が無いものと思っています。そんな孤立した中では、価値観の変容というプロセスのなかではますます孤独を感じることでしょう。よりいっそうの仲間との絆、後押ししてくれる強い存在、支えとなる地位を望むようになりますし、それと同じくらい否定するエネルギーも高まります。
否定するプロセスは必要不可欠です。そのプロセスが抑圧されることがあれば、変容するつまり成長を妨げられることになります。その変化の先が長い目で見て間違いだったと判断することはあっても、それは先の未来においての結果にすぎません。この時点では誰にも否定されることのない成長の一節なのです。
健全に否定するプロセスを通り過ぎることが最も重要なのです。
このことについて、社会として、制度として、公教育の役割として、それこそ受け皿とはここに作っていくべきなのではないでしょうか。
この否定の感情は激昂していることもしばしばで、これに先生のメンタルがまきこまれる恐れも大いにあります。それを防ぐためにも制度整備は可及的速やかに必要な措置のはずなのです。
価値観の変容の理想的な到達点は「多様性の受容」だと考えることができます。つまり「学校の価値」も認め、受け容れ、なおかつ「選ぶ」ということです。このことは家庭でも、学校と先生の間でも、別々に、かつ同時に必要な理解です。なぜなら、価値観の変容というプロセスにおいて、こどもの価値観を親が変えようとするステップが想定されますが、これは親という立場を利用して個人の価値観を、こどもという個人に押し付けているのです。そして先生もまた「学校の価値」を尊重するがゆえに、個人の価値観を超えて、親御さんにその価値観を押し付けてしまうという事態が発生してしまうのです。「学校の価値」をどのように置くかという価値観は個人のものさしです。どんな位置づけであれ、個々に尊重されていなければなりません。
kokageではデスクーリングの重要性をお伝えしていますが、多様な学び、学校外のまなびの場という文言が知られるようになり、この価値観の変容というプロセスを見かけ上では飛び越えて「選択し」ているように見られています。ですが、おそらくはほとんどのケースでは、「選択した」と思っていることが、実は「代替」「学校の代わり」「消極的な選択」「避難」であることのほうが多いのではないでしょうか。なにもかも受け容れているつもりで、実はそうではなかったと気づくのは、本当に受け容れた時になります。
そして先生のほうでも「選択したのだ」と判断することで、それ以上立ち入らないでよいという結論を出しやすくなっています。すると現状では、本当に必要としている支援につながらなくなってしまう可能性があります。
【三方良しの支援体制を目指して】
地域コーディネーターがいます。学校と家庭とつなぐコーディネーターがいます。その存在はまだ未成熟で、教育の場は公教育すなわち学校であるという前提の上でしか動くことができないのが現状でしょう。やっと教育支援センターや発達支援センター、医療機関との連携がわずかにつながろうとしている最中かもしれません。ですが、世間で知られているように学校以外の場は多様であり、フリースペース・居場所、フリースクール、オルタナティブスクールそしてホームスクールがあります。公的な支援のパイプではこういった学校以外の多様な場とつながる機会はほぼありません。しかし、こういった場所が適している子も必ずいます。フリースペースが無いからと言って、フリースクールが無いからと言って、じゃあそれならホームスクールでというような消極的な選択肢の消去の結果が「選んだ」としてよいのかどうかは、まだまだ予断を許さないのではないでしょうか。
個人の選択の自由は尊重されるべきですが、それと同時に孤立するようではどこか矛盾しています。多様性のなかにいるとは言い難い気がします。社会の中で自由に生きていることは、社会の一員であると思えることではないでしょうか。形は違えど、それなりに社会と関わりを持っている暮らしを支えられていることが必要なのではないでしょうか。
そのために途切れることのない支援のパイプというのならわかります。次の支えに手渡すまでのパイプが整っていることをいうのではないでしょうか。しかし、今、それぞれの役割は独立した島のうえにあって、その島を渡る船の数すらあやしいような事態です。なんとも誰にとっても心もとない感じです。
家庭とっても、学校にとっても、そして社会とっても支えとなる支援を求めるなら、三者が協力していけるのではと思うのです。お互いさまで、成長していけると思うのです。私たちが常に変容し、成長することで、そしてそれがゆるされるゆるやかな社会であろうとすることで、社会もまた成熟していくのではないでしょうか。
対立はもうやめにしましょう。幻想からかばうこともやめましょう。
どちらが正義なのかと証明しあうことも、どちらが優位なのかと示しあうことも、こどもの目に映さなくてよいことです。
こんなおとなになりたい、支えあいで安心できる社会を担うおとなになりたい、こどもにそう思ってもらえるおとなになりたいです。
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デスクーリング~学校に行かないことへの罪悪感を拭って~
学校教育を選ぶ。オルタナティブ教育を選ぶ。その前に、学校教育信仰から脱し、新たに「教育とはなにか」「学びとはなにか」を問い直す。デ・スクー…
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