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De Schooling(デ・スクーリング)ー『ホームスクールをはじめよう~日本のホームスクール』から「デスクーリング」公開版


 

 ホームスクーリング・センター木蔭
まなびあい>多様なホームスクールの在り方
公開日は2015年1月15日です。コラムは2017年3月10日にHPで公開しました。解説コラムをnoteに移行し、2017年9月5日に公開しています。
 このnoteは、公開した『日本のホームスクール』のうち「デスクーリング」の項をとりあげ、詳細を加えました。(2022/11/25追記)



 「不登校」を言い換える提案は時折起こります。
 これまでにも登校することができないなんらかの精神的な症状として生じていると見られていた「登校拒否症」という言葉が用いられたころは、「母子分離不安」などが専門家(?)によってまことしやかに拡散され、家庭の問題とされてきました。登校できないという意味の「不登校」という言葉に代わり、本人の心の病として見られたころには、「登校刺激」なる行為は控えるようにとの意識がのぼったものの、本人の問題とされるようになり、診断や発達支援が叫ばれるようになりました。
 「学校は行かなければならない」という価値観念から、不登校であることは長いこと「わるいこと」としてこどもたちの心に影を落としてきたのでした。

 しかし「基本的人権」を知る人はそうは考えません。
 こどもの権利としての学習権は、こどもの成長発達に応じた環境を整える義務が親にあることを示していますし、親の教育権は、こどもの個々の能力に応じた学習を選ぶ権利として理解できます。

 わたしたちは、教育を選ぶことができます。


【デ・スクーリングしよう!】


 ​自らの内発的な学習意欲から切り離された、学校教育の決められた学習課程と指導というスタイル。それが唯一の教育のカタチだと思い込んでいるために「学校に行かなければならない」という価値観が固定されました。学校に行かなければならないのにできていない事に抱く罪悪感。これをとりのぞくプロセスのことをデスクーリングといいます。

 はじめにお断りしておきたいのですが、ここでいうデスクーリングはイリイチの『脱学校』の説明ではありません。日本における社会通念として、学校もしくは学校教育信仰からの解放です。隠れたカリキュラムである同調圧力や予定調和、間違った平等主義と、取り違えられた民主主義の勘違い、自由の概念の誤解、抑圧からの解放です。

 多様なまなびは、在り方の違いです。自由なまなびの在り方を目指します。 デスクーリングの期間は、罪悪感によって抱えてしまった心の傷を癒すため、また、あらたなまなびの環境をみずから選択するためにも、休養・休息といった時間を要します。過去の事実を容認し、本来の自分らしい自分を慈しみ、新たな道へと歩み出すために必要なプロセスです。
 不登校をきっかけにホームスクールへ移行する親子は、少なからずこの過程をたどります。そうでなければ休養も休息も確保することは不可能です。
 不登校からの脱却に限らず、親の思想や社会通念の縛りが強すぎる結果生じた偏り(バイヤス)を取り除く意味もあることでしょう。デスクーリングは生育環境による固定されてしまった価値観を解放し、自ら考え、選び、自律を取り戻すプロセスです。


【要塞・秘密の安全基地に潜む安心を】

  もし、なにかしらの心に負債を抱えたことをきっかけにした不登校で、こころも体も健全とはいえない状態に陥っている場合のデ・スクーリングは、学校に行きたいとは思えない自分と、学校に行くべきなのにと考える自分とで葛藤しています。親も同様です。まるで「なにもしていない」ように見えるでしょう。「なにもできていない」ように見えるでしょう。
 そうではないのです。「外部に対しての反応機能を最小限に抑えて、身体活動のほとんどを自分の内側を対峙する」ことに文字通り、寝ても覚めても時間を費やしています。もっとも重要な活動に取り組んでいる最中です。外部に対して非常に無力であるとは、外部に対して非常に敏感にならざるを得ないということです。《要塞・秘密基地》のような強固に自分を守ることができる場所にひそむ様は、たくましい生存本能だと思えます。
 家のなかであれ、フリースクールであれ、保健室であれ、「ここは自分の身を守ることができる場所ではない」と感じるなら、このもっとも重要な活動に集中することはできません。対峙する時間を確保できないうちは、その環境が整うまでこのもっとも重要な活動にとりかかることができないのですから、その他のなにかしらの行動も起こすことはできないのは当然のことです。満足に守られていないと感じる間は、なにか別のことで気を紛らわせたり、なにかしらの行動に移ることができない理由をつくりあげるために生活リズムを変える結果になるかもしれません。

 身体症状は心の動きと完全に一致します。
 もし一致していないのなら、それは心配すべきことのひとつです。その症状や感情の起伏は時間をずらして表に出ることもあります。安心できると確認するために試す行動を起こしたり、充分な環境が確保できたと認識できてから、その時になってやっと身体症状として発現したりもします。このときは外から何かをさせようとすることはできません。周囲で見守る人は《待つ》しかないのです。その時期は、2週間やそこらでどうにかなるものでは決してありません。いつしか「昔のこの子にもどったような…?」と感じるまでには、心に負った傷を受けた期間の2倍の時間は必要だと心するのが妥当です。人間の心の修復期間はそれくらいかかるものなのです。それは心の機能が健全に働いている証拠です。


【デスクーリング無しでは価値観は変わらない】

 デスクーリングのプロセスをふまずに学校教育が唯一の教育であるという考えのままホームスクールに踏み込んだ場合には「どのような方法をとっても最終的には学校教育の目指すゴールへ至ることができる」と証明しようと試みる傾向があります。親もこどももです。
 学校の代わりとなる教育の方法論(代替教育)を安易に選んでしまいがちなのです。そのため学校教育の指導内容である「読み・書き・計算」の教育課程の学習内容を身につけさせることを目標やゴールに設定にしたり、合否判定するためのテストにも合格できる力はあるのだと示すようにこどもをたきつけます。期待を感じ取ったこどもも、そうした証明しなければならないと考えます。
 なぜなら、それがしあわせになるための方法だと考えているからです。しあわせとは学力を身につけることであるという前提を持っていて、そうすれば学校(あるいは社会や世間)が将来を保証してくれるというのは幻想にすぎませんが、その幻想を差し伸べてくる手にひかれて歩いていることに、一切怖れを抱かないのです。
 学校に行かなくても、学校に行くのと同じことができるのだという証明に親も子もとりつかれてしまう。あるいは、「その証明をするように」という学校の要求に応えようとしてしまう。それは果たして、こどもにとって最善なことでしょうか。


【〔不登校=ホームスクーリング〕であってはならない理由】

 学校に行かないでいる状態の意味に過ぎないはずの不登校の概念は、こども自身にとっては「学校に行けない」という罪悪感や「親なのにこどもをコントロールできていない」といった親の監督に疑問を呈するようなことが起きます。
 「学校に行かせられない親・保護者」とラベリングする視線は不登校への偏見と差別をまといます。そのため「不登校」という言葉そのものにマイナスのイメージがつきます。
 名前を変えることでそのマイナスイメージを払しょくしようとする動きはよく見られます。教育機会確保法(※2016年成立した学校教育法の特例法。不登校支援法とも通称される。)も不登校の偏見と差別の払しょくを願っての立法でもありましたし、さかのぼれば「不登校の子どもの権利宣言」(※最下部に参照)もそうでした。
 しかし人の価値観や信念を文書や法律で変えることができません。それらは手続き上のものでしかありません。つまり形式的な決まりにしか変えられないのです。形式的な決まりをどうこうするだけであれば「不登校」の定義が周知されていればそれで済むことなのです。

不登校の定義
 学校における集団の生活に関する心理的な負担その他の事由のために就学が困難である状況として文部科学大臣が定める状況は、何らかの心理的、情緒的、身体的若しくは社会的要因又は背景によって、児童生徒が出席しない又はすることができない状況(病気又は経済的理由による場合を除く。)とする。ーフリースクール・不登校に対する取り組み:文科省

 この定義は肯定的に受け止められる場合否定的に受け止められる場合の両方を含んでいます。否定的とは、この状況が「あってはならないこと」と見ることです。そして「不登校の状況から脱する。つまり学校復帰するために支援の必要性があることを意味する」と解釈することは、ひとつの側面にすぎません。不登校支援はただの一側面を根底にしています。
 肯定的とは、この状況にあってかつ学校に登校する以外のなにかしらの対応をする可能性を持っているということです。それはオルタナティブスクールに通うことかもしれませんし、ホームスクールに移行することかもしれません。不登校の状況のその後を選択する段階に入っているといえますが、同時並行で高等教育進学など学校で学ぶ環境の準備に取り組むとができることも含んでいます。心身ともに健全な状態になることと、学校復帰よりも、どこからでも高等教育の進学や就職への道がふさがれないことの制度整備が課題です。
 いずれにせよそれは不登校の状況を経た後の選択であり、もっとも重大な不登校が抱える現在の課題は「宙ぶらりん」の状態であることです。その後の方向性が定まらず「なにをしてよいのかわからない・決められない」ことが多くの家庭で抱える「困り感」となり、大きな不安を生じさせています。

 「宙ぶらりん」から次の段階に進むためにデスクーリングが必要です。ですが、誰もこれに取り組もうとはしません。少なくとも日本では。その理由はあります。学校教育に基づかない公教育は存在しないことになっているからです。

 学校とは何か
 学校教育とはなにか
 学校に登校するとはなにか
 学習とはなにか
 こどもが成長することとはなにか
 幸福とはなにか…


 ありとあらゆる「あたりまえ」を問い直し、その価値観を見直すことで、「では、どうしたらよいか」をみずから見出す作業がデスクーリングです。

 このプロセスを経て初めて、今後の暮らし方や過ごし方をイメージすることができるようになり、将来を見据えて、今、必要なことや揃えるべき環境に応じてホームスクーリングなり、オルタナティブスクールなり、フリースクールなり、教育支援センターなりと学習の機会を選ぶことが可能になるのです。これらは単に場の違いではありません。

 不登校という名前がマイナスのイメージがあるからといって、「不登校とは学校に行かないことだろう。それなら家にいるのだろう。」という意味で「学校に行かないなら、ホームスクーリングでいいね」とはならないのです。そして「学校の勉強を家でする。親が教師となるホームスクーリング」というイメージも、不登校という状況から休息と休養を必要とする状況にある時は「勉強しなければならない・させなければならない」の強迫観念の一つになります。それはホームスクーリングではなく、家庭の学校教育化すなわちスクールアットホームとなるのです。(※参照:ホームスクーリング・サポートセンターkokage まなびあい>ホームスクール・スタイル 「スクールアットホーム」

 スクールアットホームは「学校」から「家」に場所を変えることですから、それでよい場合もあれば負担を感じる場合が多くあります。
 学校に行かない理由が言語化できないのは、ただ単に「登校できない」だけではないからです。さまざまにからみあった理由があり、本人にさえ、すぐには整理できないものです。学生時代という年齢を過ぎてもなおそうなのです。不登校は学齢期だけの課題ではなく、不登校にまつわるストレスを経験したすべての人にいまだ重くのしかかる課題です。過ぎてしまえば終わることではありません。乗り越えることでもありません。ただ穏やかにつきあえるようになることです。スクールアットホームもデスクーリングを経たあとの選択でなくてはなりません。
 「子に、あれやこれやと提案してもどれも選ばない」と嘆く声があります。「選べない」と表現されることもあります。それはまだその時期がきていないだけです。それを「こんなにしてあげてるのに」とか「たくさんあっても無駄なこと」「あの子には合わないんだ」などと判断するのは早計です。《待つ》とは、そういうことです。「提案されたら、すぐにそこから選べ」とはなにごとでしょうか。決定権は誰にあるのかを考え直してほしいものです。


【デスクーリングはいつからはじめるのか】

 それは「いつからでも」ですし「いつでもおこなわれる」ことです。
 何にどのような価値を感じるかは、当人の価値観念すなわち人生観や世界観、死生観などに基づきます。それらは多様な価値観に触れ、それまで自分が持っている価値観と照らしあわされ都度、軌道修正され更新します。そうして人は成長していくものと思います。時代が流れているからとか、多様性が拡がった現代社会だからという理由ありきと捉えるのは適当ではないように感じます。
 「多様な価値観に触れる」というと、外に連れ出してさまざまな体験をさせなければならないと考えるでしょうか。それは違います。いままで培ってきた自分のなかにある価値概念を総ざらいして再会することです。だからこそ内側を見つめる充分な時間と環境が必要なのです。
 いつの時代でも、人は生まれてから死ぬまで、そうしようと思えば成長し続けます。そうせざるを得ない状況に導かれることもあるでしょう。

 多様性は拡大したわけでも増えたわけでもありません。
 価値観は個々人で別物ですし優先順位も千差万別です。価値観によらない生来の多様性もあります。
 価値観に由来して起こる動機によって行動に現れます。価値観はきわめて個人的なものであり、個人の価値観が、他者によって「認められる」「許可される」「許される」必要はありません。しかし差別や偏見を動機として引き起こされた行動ならば、それは許されるものではないはずです。あらゆる価値観が他者に「同じ価値観を持つように」と指導されたりして、押し付けられることがあってはなりません。それは洗脳や支配になってしまいます。
 あらゆる価値観が人それぞれに存在しています。価値観は、どのようなものであれ尊重されるのが人権です。存在することが、多様性があるということです。価値観を否定されることなく、多様性が受け入れられることが、寛容な社会といえるのではないでしょうか。

 「学校に行くべき」価値観も、「学校に行くことを重視しない」価値観も同等に尊重されるものです。さらに同じ価値観を持ち得ていたとしても起こす行動は異なります。また、一見同様の行動をしているように見えても持っている価値観は同じだとは言えません。行動の動機が異なるからです。それほどに個々の在り方は違っています。
 「学校に行くべき」価値観を持つ人に、「学校に行くことを重視しない」価値観に変えるように進言することは妥当でしょうか。違うような気がします。「学校に行くことを重視しない」価値観を持つ人がとる行動が、否定されることなく、拒絶されることなく、そのことによって人間性に偏見を持たれないことが重要なのです。どんな価値観であれ、です。逆も然りです。異なった価値観を持ちながら、共存する寛容な社会が多様性を受容する社会といえるのではないでしょうか。

 デスクーリングは、固定観念を打ち破るプロセスです。ゼロベース思考ともいいます。持っているものを一度手放して、フラットにする作業です。手放したものは消えたわけはないので、怖れずに取り組めば、新たに構築された世界が広がります。


【デスクーリングに特別な技は必要だろうか】

 さまざまな不登校支援があるのと同様に、デスクーリングには特別な専門家や支援者が必要なのでしょうか。そうは思いません。
 必要なのは「自分と向き合う自分自身」であること以外に無いように思っています。なぜなら、それは「誰かの価値観をどうにかする」ことではありませんし、「誰かによって自分を変えてもらう」ことでもないからです。自分自身の決定によってなされることなのです。
 自分を見つめる。とてもシンプルなことです。

 自分に問い続けることは、なにか初めから答えがあって、それを「正解です」と答えてくれる誰かを探すようなことではありません。生じた疑問や、「こうだ」と思っているけれどもまだどこか隙間があると感じていたことが、突如として腑に落ちるのです。「そういうことだったのだ」というひらめきと気づき、発見という喜びなんですね。
 愉しいばかりではありません。産みの苦しみかと思います。でもたしかにたどり着きたいゴールは自分が「ここだ」と感じるところがあって、それは不意につかみそこなったりします。だからとどまることがなく、絶えず成長しているのだと思うのです。「まだ、あった。まだ思い込んでいたものがあった」と何度も繰り返す作業は一生かかっても続いていきます。それが人の心の学びであり、それをとめることは成長を止めることだとどこかで知っているからでしょう。不完全であるからこそ、そして「完全である」ことはないからこそ、より完成に近づきたいと切望するのは人間の本能なのかもしれません。

 そのようなまなびあいが家族によって得られると分かった喜びは、我が子が我が子でいてくれたことの喜びにつながります。
 デスクーリングという言葉を知らずとも、我が子が学校に行かなくなった経験を通して、価値観の転換を経験した人は多いのでしょう。だから「不登校になってよかった」と言うことができるのでしょう。それほどのかけがえのない経験が訪れるのです。そうしようと思えば。

 

【こどものしあわせを願うからこそ】

 「こどものしあわせ」は、こどもが決めるものとしてあたりまえにあるのだということを忘れたくないと思います。
  こどもの人生は、こども自身のものです。
  親の人生もまた、親のものであるのです。
  あなたの人生は、あなたのものです。
  人の人生は、その人がつくりあげていくものであり、つくりあげてきたものなのです。だれの、どんな生き様も尊重されるのが多様性を受け容れる熟成した社会であり、その実現を願ってやみません。


参考note:日本のホームスクール

ホームスクール情報をまとめているホームページ:
ホームスクーリング・センターkokage


参考:『不登校の子どもの権利宣言』2009年

(※フリースクールに通うこどもたちと大人の手でつくりあげられた宣言です。こどもたちの意見が完全に完璧に反映されているとはいえない事情も含んでいることは隠せませんが、それでも当時は画期的な宣言でした。純粋で切実なこどもたちの心の部分を汲み取っていただきたいです。どうか、これ以上、大人の都合で切り取られたり使われたりしませんように願います。)

◎前文
私たち子どもはひとりひとりが個性を持った人間です。
しかし、不登校をしている私たちの多くが、学校に行くことが当たり前という社会の価値観の中で、私たちの悩みや思いを、十分に理解できない人たちから心無い言葉を言われ、傷つけられることを経験しています。
不登校の私たちの権利を伝えるため、すべてのおとなたちに向けて私たちは声をあげます。
おとなたち、特に保護者や教師は、子どもの声に耳を傾け、私たちの考えや個々の価値観と、子どもの最善の利益を尊重してください。そして共に生きやすい社会をつくっていきませんか。 
多くの不登校の子どもや、苦しみながら学校に行き続けている子どもが、一人でも自身に合った生き方や学び方を選べる世の中になるように、今日この大会で次のことを宣言します。

一、教育への権利
私たちには、教育への権利がある。学校へ行く・行かないを自身で決める権利がある。義務教育とは、国や保護者が、すべての子どもに教育を受けられるようにする義務である。子どもが学校に行くことは義務ではない。

二、学ぶ権利
私たちには、学びたいことを自身に合った方法で学ぶ権利がある。学びとは、私たちの意思で知ることであり他者から強制されるものではない。私たちは、生きていく中で多くのことを学んでいる。

三、学び・育ちのあり方を選ぶ権利
私たちには、学校、フリースクール、フリースペース、ホームエデュケーション(家で過ごし・学ぶ)など、どのように学び・育つかを選ぶ権利がある。おとなは、学校に行くことが当たり前だという考えを子どもに押し付けないでほしい。

四、安心して休む権利
私たちには、安心して休む権利がある。おとなは、学校やそのほかの通うべきとされたところに、本人の気持ちに反して行かせるのではなく、家などの安心できる環境で、ゆっくり過ごすことを保障してほしい。

五、ありのままに生きる権利
私たちは、ひとりひとり違う人間である。おとなは子どもに対して競争に追いたてたり、比較して優劣をつけてはならない。歩む速度や歩む道は自身で決める。

六、差別を受けない権利
不登校、障がい、成績、能力、年齢、性別、性格、容姿、国籍、家庭事情などを理由とする差別をしてはならない。
例えばおとなは、不登校の子どもと遊ぶと自分の子どもまでもが不登校になるという偏見から、子ども同士の関係に制限を付けないでほしい。

七、公的な費用による保障を受ける権利
学校外の学び・育ちを選んだ私たちにも、学校に行っている子どもと同じように公的な費用による保障を受ける権利がある。
例えば、フリースクール・フリースペースに所属している、小・中学生と高校生は通学定期券が保障されているが、高校に在籍していない子どもたちには保障されていない。すべての子どもが平等に公的費用を受けられる社会にしてほしい。

八、暴力から守られ安心して育つ権利
私たちには、不登校を理由にした暴力から守られ、安心して育つ権利がある。おとなは、子どもに対し体罰、虐待、暴力的な入所・入院などのあらゆる暴力をしてはならない。

九、プライバシーの権利
おとなは私たちのプライバシーを侵害してはならない。
例えば、学校に行くよう説得するために、教師が家に勝手に押しかけてくることや、時間に関係なく何度も電話をかけてくること、親が教師に家での様子を話すこともプライバシーの侵害である。私たち自身に関することは、必ず意見を聞いてほしい。
 
十、対等な人格として認められる権利
学校や社会、生活の中で子どもの権利が活かされるように、おとなは私たちを対等な人格として認め、いっしょに考えなければならない。子どもが自身の考えや気持ちをありのままに伝えることができる関係、環境が必要である。

十一、不登校をしている私たちの生き方の権利
おとなは、不登校をしている私たちの生き方を認めてほしい。私たちと向き合うことから不登校を理解してほしい。それなしに、私たちの幸せはうまれない。

十二、他者の権利の尊重
私たちは、他者の権利や自由も尊重します。

十三、子どもの権利を知る権利
私たちには、子どもの権利を知る権利がある。国やおとなは子どもに対し、子どもの権利を知る機会を保障しなければならない。子どもの権利が守られているかどうかは、子ども自身が決める。

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