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20歳の若者論

 とあるツィートが大変興味深く、20歳長女とのホームスクール時間のテーマに取り上げてみました。ここで出てくる学生さんは長女と同年代かも?という前提ですすめています。


社会調査から示される社会の全体状況を見て、自分自身の認識や経験とは異なって見える点をポイントアウトし、その相違がどうして生じるのかを考察してみてください、というのが今回の課題。

 シンプルに、社会的存在としての自分を捉え直し、自分を支える社会的諸条件が構造の中でどう位置づくのかを考えてくれれば良いのだが、どうもその筋で考えられる人が少ない。「自分に常識が足りないのです、視野が狭いのです」と内罰的になるか、「調査票の文言に、調査デザインに、瑕疵があるからです」と他罰的になる人が多数。

 社会を心理現象のように捉えさせたり、やたらと「常識を疑う」ようにさせるのは、今の若者が真っ当に生きていくための助けになっていないのじゃないか、と思う。

 3つのポイントに焦点を当て、それぞれを考えて、思い浮かぶことを挙げてみました。それを文章にまとめてみる試みです。

内罰的・他罰的な反応になる仕組み

(仮定) 社会と自分自身とを、かけ離している感覚があるのではないか。
(理由) 社会の一部分である自分の位置づけを無意識に回避しようとする。
(結果) 学問にどっぷりと浸かる研究者(学習者・学生)としてではなく、目上の者に対する「あるべき若者」の振る舞いを身につけた。

 テレビの向こうから流れる情報を視るかのように、我がごとと捉えないこと。自分とは別物の「そうだと理解されているらしいなにか」が社会であって、そこに自分も含まれているとは感じないのではないか。
 なぜ、そんな感覚を持つように至るのかを考えると、そこには「若者」が常にこれまで、どう扱われてきたのかを想像することになった。

 若者が処世術として身につけた立ち居振る舞いは、「自分とは関係ない」ところに位置付けることで「従順さ」を示すことができることを知っている。無関心ではない「自分が知らないだけ(内罰的)」「そもそも事実が間違っている(他罰的)」によって得られるものは、自分を抑圧する大人たちあるいは自分とは異なる意見や人生経験を持つ他者と関わらないでいい平穏無事な毎日だ。
 正解を求められても、そこから距離を置けば「間違いではない」人生を送ることができる。

 自分とは関係ない社会との相違を求められようにも、間違ったことを言わないように内罰的であるか、他罰的であるかのどちらかの態度で、自分を出さないことが正解だと認識する。少なくともそう振舞うことが、「若年者の振る舞い」として躾けられてきたのだから。しかしそれは無意識に起こる条件反射のようで、それが「社会と言われても、自分が認識している社会とは別物なので比較しようもない」と感じるのだという。


「シンプルに、社会的存在としての自分を捉え直し、自分を支える社会的諸条件が構造の中でどう位置づくのかを考えること」が、できない?

(仮定)過去の経験を振り返り、過去の出来事と今現在の自分を形成するものが「つながった」と気づく体験が足りないのではないか。

 いざ、それを考えてしまうと、なにが起こるだろうか。
 自分は何者であるか。これについて、なにかしらの答えを探っていくことになってしまう。それでは不都合が起きてしまうのだ。「他の人と同じであったほうがいい」。「個性によって浮いたり、出る杭になってはいけない」。「みんな一緒」が安心である理由は、自分に疑問を持たないでも済むということだ。大人たちが考えるこども像の枠になんなく染まっていれば、あとは大人が勝手に「自分が何者であるか」を決めてくれる。教えてくれる。考えてくれる。そして「なにをすればいいか」が目の前に差し出される。そこに従うことが、自分がそこに在るべき社会なのだから。
 その社会の外を見たところで何になるだろう。なにが知れるだろう。なにができるだろう。そんなことは誰も教えてくれない。誰も、自分の代わりに考えてはくれない。そんな社会があるなんて、知ったところで、何があるのか。そこには約束された成功も、保障も、なにもないのに。

 上手に生きて、上手に自分のいるべき「社会」の波に乗って、上手に通り過ぎていく若者像が浮かび上がってくるのだろうかと、半分はずれだと思いたい気持ちと、もう半分はそうなのかもしれないという確信に近い気持ちで意見が口をついて出てきた。

 〔社会的存在としての自分〕が実感として持ち得ないのではないか。

 自分がいた社会と、いわゆる自分もその一部にいるであろう社会があまりに遠いものになっている。



「シンプルに、社会的存在としての自分を捉え直し、自分を支える社会的諸条件が構造の中でどう位置づくのかを考えること」に足りないのはなにか

 (仮定)自分を振り返る練習が足りないのではないか。

  〔問いに対して、正解が求められるのみ〕が今現代の若者の生活様式なのではなかっただろうか。

 点在する情報がつながって今に至る感覚ではなく、個別の情報が、必要な時に「これが正解」と判断して差し出されるよう訓練されてきた。

 「AがあったからBになった」というように、〔A=過去にあった事実のひとつ〕によって〔B=現在の自分〕が出てきたものであって、それはあたかも公式をあてはめて導き出すような答えの導き方と似ている。同じことをすれば、同じ結果が出るものとして、同じ努力を求められ、同じ結果を求められ、成果が実る行動様式を身につけることが、彼らの社会だったではなかったろうか。
 公式を導き出すのではなく、与えられた公式をどこでどのように活用すればいいのか、そのルールブックを与えられてきた気がする。与えられたブールブックに「なぜなんだろう?どうしてなんだろう?」と、〔思考する〕というもっとも魅惑的な行為は、時に「それより今するべきこと」を優先することによい追いやられ、優先するべきルールブックに従って生きる練習をこなすために時間は過ぎていく。

 効率的に、生産性のある生活様式で生きてきた社会。それがすべてであるならば、細分化されたひとつのなかに居て、全体の一部であるのが自分自身なのだという認識は果たして持てるだろうか。


なにをすれば、「シンプルに、社会的存在としての自分を捉え直し、自分を支える社会的諸条件が構造の中でどう位置づくのかを考えること」ができる?

  果たして、それができるようになることを、学生たち若者は求めるだろうか。自分と社会を切り離し、無関係であり続けることで、「間違いのない人生」は確かに送ることができ、社会的に「認められた」地位にもつけている。落ちこぼれたわけでも、社会のレールからはずれたわけでもない。どこにそんなメリットがあるだろうか。

 社会を構成する〔個人〕を、個人として認識し、わがごとに引き寄せ、共感し、その体験を追随することで得る知恵を得て、それで「自分が何者であるか」を知ることを、幸せなことだと感じることがなぜできるだろうか。

 「何者でもない」孤独に耐えられるだろうか。

 その虚空に浮かぶことができるだろうか。

 その渇望を、彼らは望むだろうか。

 彼らは怖がりはしないだろうか。

 

答えのない問いに

 なにやら救いようのない答えに向かってしまったように思えるが、やはりわたしたちは答えのない問いを問い続けることが好きなのだ
 正解や答えを「出す」ことが魅力的なのではなく、答えを出そうとするところ、そこに居る自分がおもしろいのだと感じる。

 「自分が何者であるか」。そんな答えはいつまでたってもみつからず、ただこうして答えのない疑問を問い続けるたびに、自分の在り方・在り様が浮き彫りになってくる。それはいつでも再確認である心地がする。今ある自分をつくりあげてきたものが、愛おしく、どれが間違いでも正解でもなく、ただあるがままの今に在るといった感覚を覚える一瞬がいつも好きだなと思う。

 なぜ、そうなったのだろう。

 それはわたしたちのホームスクール暮らしが、常識的な社会とはかけ離れていたからなんだろう。確かに、わたしたちは駆け離れてきた。でも、やはり社会の一部であるとも常に自覚してきた。社会を創る「人」のひとりであることも。わたしたちは忘れられた何者かではなく、わたしたちの存在はやはり社会なのだということも。どれも「わたしたち」だ。それでいいと思った。


最後に

 ラストタイトル「答えのない問いに」の内容は、わたしの想いをまとめた。それより前のタイトルの内容は、20歳長女の見解を、私が文章にしてみたもので、長女からは「合格点」をいただいたことを報告しておく。

 長女のまとめらしき意見としては・・・


「テンプレをやめて、自分を振り返ることが「おもしろい!」ってなるといいよね」

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