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ホームスクール選択の理由と基本的人権

 ホームスクールを選んだ理由のなかに「宗教」が挙げられている例を抜き取られているとき、そこにわずかな忌避と偏見が垣間見えるように感じるのは私だけでしょうか。きっとそうではないでしょう。
 宗教に向ける異端の目を持つ日本人特有の感覚は、個人の尊厳を護る基本的人権の思想が根付いていない証明かもしれません。なぜでしょうか。日本には宗教は無いのでしょうか。そんなことはありません。むしろ海を渡ってきた数々の宗教を祖としたあらゆる宗派を広げた思想に関して寛容な国です。忘れられているのは信仰心のように思うのです。
 信仰の自由と共にホームスクールを選択する自由について考えます。

マガジン『一考:ホームスクール制度
関連note:
日本のホームスクーリング制度のゆくえ
ホームスクール制度と社会的擁護


【信仰と思想の自由】

 憲法においては「信教の自由」という表現なんですね。あまり聞きなれていませんでした。どちらかというと「信仰」とするのが個人的にしっくりするので、それで書き進めてしまいます。

日本国憲法 第20条信教の自由、国の宗教活動の禁止
第1項
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
第2項
何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
第3項
国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 これ以降、登場する語句について、厳密な定義はどうなのかはちょっと置いといて。世間一般的に人々の間で口にされる言葉としての解釈と理解の上で、個人的な解釈からの言葉の印象になることはご了承くださいね。

 「帰依=信仰」と、この言葉は同義として良いようです。でも人が「信仰心」と口にする時には、その意味は少し違う印象を受けます。
 「帰依=信仰」。それは対象への完全な依存を示します。絶対的な信頼の印象です。なにがあろうとも信じていくという決意のようなものが感じられます。対象物の本質を問うことなくすがりつくように盲信することと壁一枚なこともあります。けれども「対象を信じる」行為の前に、盲信しないのであれば一度「疑う」行為が生じます。「本当に信じるに値するのか?」「自分がこれだと思う道と、信じていく道は、果たして重なっているのか」というような具合です。
 本来「帰依=信仰」の対象は新興宗教を立てた教祖という個体ではなく「教え」のほうであるのではないでしょうか。対象が個人・個体であるとき、より盲信に近づくような気配を感じてしまいます。けれども「教え」はいわば「道徳」です。万人に通じる心の在りようと人間の本能的な行動とを律する規範でもって、良い生を送っていく。私はそのようにとらえています。残念ながら、宗教人類学や宗教学にはさほど詳しくは無いので、機会があればまた勉強してみたいものです。


【宗教の帰依と信仰の深さ】 

 「何人(ナンピト)も 強制されない(憲法第20条)」とあります。
 宗教活動は個人から始まるものだといえるのではないでしょうか。仮に親や親族がある宗教に帰依していたとして、家族ですから信仰にもとづいた慣習や形式的な様式は暮らしの中でおのずと受け継がれていきます。ここで区別して理解しておきたいのが特定の宗教の帰依と信仰心です。

 例えば「ウチは○○教を信仰しています。」とは「○○教に帰依しています」と捉え直すことができます。つまり特定の宗教の教えに従った生活や行動規範を守って暮らしているという意味です。その暮らしぶりにはその宗教の教えを知らない家族の暮らしぶりとは違ったものが随所に見られることでしょう。ですがそれは果たして特異なことでしょうか。公共の場ではあらゆる宗教を持つ人々が行き交いながらも公共の場を共有しています。多様な生活様式と文化を背景に持っていますから、互いに各々の行動様式とその根拠をよく知っているわけではありませんが、自分自身がそうであるのと同じように、人は誰でも自分の信じるものを信じているのだということは予想できるのではないでしょうか。誰かにとっての「当たり前」が、当たり前ではないということに気づくはずです。

 教えに従うとは、単に「ルール(規範)に従う」ことではないでしょう。家族間では「なぜそのようにするのか」という暮らしの行動様式の由来、根拠をこどもに伝え諭す場面が生じますし、そこには親の思想が必ず介在します。もっとも重要な点がです。由来・根拠そして思想の要素を考慮しないままただ従うべきものとして宗教の帰依と信仰を強制することは基本的人権においてもしてはならないことのはずです。
 一般的になにか宗教を信仰していると知られると、その家族全員を個人ではなく集合体のひとつであるかのように扱われがちです。「そういう人・そういう人たち」という括りにいれられてしまうのです。カテゴライズとでもいうのでしょうか。なおかつ自分の知っている範囲の知識でのみ形成された印象で「レッテル」を貼られてしまう傾向にありませんか。

 友人が「うちは○○教を信仰していてね」と言うのであれば、それは友人の家族・親がそうなのだなと捉えます。家族ひとりひとりの選択の結果が「ウチの信仰」となっているだけです。ですから「そうなの。あなたはその宗教について、どのように理解しているの?あなたの思想と宗教はどれくらい近しいの?あなたもその宗教に帰依する信者になるの?」と聞きたいことはやまほど出てきそうな気がします。
 「うちは」と言われたら、問いたくなるのは「では、あなた個人はどう考えているの?」ということです。個人の意思が尊重されているのかどうかと確認したくなってしまうのです。もしもそれが無いのであれば「親というだけで、その権利を利用して個人に宗教の帰依や思想を押し付けている」とみなすかもしれません。親も子も、憲法では個人として尊重されるべき命です。憲法に限りません。国連憲章です。国際的な宣言として日本は個人の尊厳を護ることを第一としているはずです。このことは教育する・されることの必修であってしかるべきではないでしょうか。

《日本国憲法 第19条》思想及び良心の自由
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない

 ホームスクールは家庭を基盤にした、こども主体の学習環境を整えることです。そのとき大切にされていることは親の人格と、子の人格は別物であること。子は親の所有物ではないこと。同時に親も子の付属物ではないことを認識することから始まります。個別の存在であり、互いに尊重し、互いの人生を活き活きと暮らしていこうとする姿勢がおのずと生まれてきます。こどもをものを知らないか弱い庇護するべき者とせず、主体であると認識することで、人間の在り方をとらえ直し、親である人もまた、自分の在り方をとらえなおし主体的に生きることを実感する機会に恵まれるのです。おもいもかけない不登校という状況にある人もまた同じ境遇に出会うことが多いと思います。不登校とは最初に想定していなかった状況であることから、突然の価値観の転換を求められて混乱することも多いでしょうが、実はたどりつく地点(ポイント)には同じものがあるように思います。

 また宗教の帰依はないけれども信仰心を持つ人は多く、幼いころの体験や祖父母の昔話などから、なんとなくそれを見につけている人はいます。そのことから命への畏敬の念や命を大切にすることと結びつき、個人の尊厳を護ることについて考えを深める人もいることでしょう。その延長線上にあるのが教育を選択する自由の行使です。
 ある意味、現代は教育を選択する自由を放棄していると言わざるを得ません。管理されることに慣れ、指導されることに安心を覚えるあまりに許可と承認を得なければ自己決定してはいけないと思い込んでいます。


【教育を選ぶ自由】

 教育を選ぶ自由があります。いわゆる「学校」とは一条校を指します。この一条とは学校教育法第1条で指定される学校であることをいいます。義務教育とは学校教育を受けることには限定されておらず、普通教育を保護する子女に与える義務が保護者にはあります。普通教育は学校教育に限定されていないのですね。

参照:『ホームスクール選択の法的根拠』


 「ホームスクールを選んだ理由に宗教がある」「宗教上の理由でホームスクールを選ぶ」との文脈で宗教とホームスクールの結びつきにどこか怪しげな印象を与えていることのほうこそ、私は非常に奇異に見えます。
 ホームスクールを選ぶことと、教育を選ぶこととを限定的に結びつけて否定的な感情を醸し出すのはなぜなのでしょうか。そして大部分の人はそんな否定的な見方を押し付けられているということに気づかず、そういうものなのだと鵜呑みにしている気配さえあります。自分で考え、当たり前を疑い、自分の目で確かめ、肚に落とすという人間らしい行為に臨まない理由はなんでしょうか。楽な方に流されてはいませんか。けれども、本当にそれは楽なことでしょうか。いったいどれほど自分たちが持っている自由について知らされていないのか。実はそのことについて、深いところでは気づいているはずです。なぜなら自分らしく生きられないことについて、誰しもが一度は葛藤した覚えがあるからです。その葛藤をどのように昇華したのかは、ひとりひとり違っています…。

基本的人権をわたしたちは尊重されています

思想の自由があります
教育を選ぶ自由があります
信教の自由があります

わたしたちは基本的人権を尊重すると宣言しています

 そうでない場面に出会ったときは、わたしたちは断固として基本的人権を尊重するようにと主張する市民の権利があります。公僕に課せられている国民との約束は個人の尊厳を守ることであり、それが日本国憲法に記されていることです。しかし、最近では憲法が公僕が守るべきことであると説明している為に、市民の側にはなんら義務も責任も無いような言い回しがほんの少し見受けられることは注意が必要に思います。市民がどう生きるか、その自由を知って実践することにこそ、公僕はその手伝いに奉仕することが可能になるのです。
 それならば、ますますわたしたちは何を知ろうとし、なにを学ばなければならないのかが見えてきてはいませんか。


【生涯学習体系】

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