ホームスクール選択の法的根拠
日本の教育制度を考えるとき、法的根拠として知っておきたいものに以下があります。
『日本国憲法』
『教育基本法』
『学校教育法』
【ホームスクールは違法ではない】
「ホームスクーリングは違法」「ホームスクールは日本で認められていない」という表現をみかけます。これは「学校教育法」のみに基づいた表現です。ホームスクールつまり自宅で学習することは、学校教育法に定める学習指導要領に沿った学習を履修したものとは認められていないことを意味します。
学校の授業展開は、学習指導要領に記された内容を公式な指導内容とし、それに殉じています。その拘束力は強いものとなっています。
本来ならば学校現場の教師の自治権が保障されることが優先されるべきところですが、学校の関わりでおこる様々な社会的な問題が取りざたされるなか、学校の在り方の責任や説明責任が問われ、教育委員会や文科省が監視・指導する構造ができあがっています。
さらに文科省と国の構造もまた同様で、文科省は国の政策という政治の思惑と手を取り合いながら、なんとか「教育という聖地」を守ろうとしつつ、妥協しながらその存続を続けています。
日本人には「根回し」「かけひき」「みなかったことにする」「そういうことにしておく」というようなはっきりと言葉に出さないところで、相手の心を察し、その置かれた状況をおもんぱかり、大事(オオゴト)にせず、誰かが目をつぶっていることで穏便にすませて、誰にとっても都合のよいように治めていくという知恵がありました。それは仰々しい儀礼をこなしてきた日本文化にもあらわれています。
ところがそれは昨今あまり機能していないんじゃないと思う時があります。あまりにも「言葉」に頼りすぎているきらいがあります。
契約や約束、規律というようなものにとらわれているようなことです。私には良くも悪くも日本人らしさが失われつつあるようにも思えます。言葉尻をとらえては、狭い了見で解釈を限定して、まるで計算式をつくって、それにあてはめれば安心であるかのような機械的な冷たい感じです。
そうしたおこないはとても効率的で、生産性を高めるのかもしれませんが、どうにも気持ちがおいついていきません。
決まり事だけで、人の心は動きませんね。
大きな声を持つ人の言葉は、その先に指し示す指先が掲げられています。どこに目を向けさせたいのかがはっきりと見えているものです。
ニュースや報道、注目される講演のなかには、それぞれ指す指の先がひとつに向けられているかのように思えてなりません。
「ホームスクールは認められていない」という発言もそのひとつです。
その言葉を初めて耳にする人は、その時初めて「認められていないのだ」と認識することでしょう。そこから視野はすでに狭まれたところから出発することになります。「本当にそうだろうか?」と疑問に思えることが、この先、情報をより正確に公正に受け取るためには必要なスキルではないでしょうか。
発言者を疑うという意味ではありません。発言から受け取った自分の印象をこそ疑ってみるということなのです。なにを印象づけられたのか、と自分自身を客観的に分析してみるということなのです。そういった習慣は、果たして身に着けているでしょうか。それはどこでいつ身に着けることを覚える機会が与えられているでしょうか。そのことを少し振り返ってみてほしいのです。
ホームスクールやオルタナティブ教育実践の法的根拠をもっと詳しく知りたい方向けにはこちらもぜひお読みください。
【自由教育の位置づけ】
「ホームスクールは認められていない」。この言葉が意味するところはなんでしょうか。これまでの既存の見識から導き出される印象を、正しいと解釈するためだけに情報を集めてはいないでしょうか。情報を収集することの意義は、見識を広めるためにおこなわれるものではないでしょうか。知っていると思っていることや、そこから想像できる仮説を「やっぱりね」と正当化するためだけに集められた情報は、都合よく解釈されて歪んでいることはしばしば起こります。客観的な事実を知り、多面的に、多角的に思考することが情報を生かす手立てだと思っています。
では、「ホームスクールをするとは、どういうことか」を知るための基本的な情報とはどのようなものでしょうか。
教育基本法において、公の性質を有して設置される施設を『学校』と言います。
「学校教育」「学校」「義務教育」「普通教育」というキーワードは混同されることなく、共通認識を持ったうえで語られていなければ、その議論が展開するための対話が成立することは困難です。各自が勝手なイメージと定義、解釈を取り違えていることに気づかないままなのですから。
そして学校教育法とは、この公の性質を有して設置される学校で執り行われる授業内容など学校運営に関して取り決められています。『学校』を構成する職員は、すべてこの学校教育法に直接的に従う立場にいるのだと認識しておくべきです。つまり、日本国内のすべての教育、唯一の教育の管轄ではなく、「学校教育」を管轄しているという意味です。
保護する子女のいる社会の構成員とは、わたしたちすべての人のことをいいます。つまり地域に関わる人たち全員です。また、教育を受ける機会、その学習する自由の保障は、すべての人が対象であることは生涯学習法が定めるところによることも知られるべきことのひとつです。
【国際法にまもられる基本的人権】
わたしたちはひとりひとりがみな、《知ること》《まなぶこと》が身近にあると分かるように、基本的人権と、その自由についてもっと理解していいと思います。
これらは国際法規としても世界のすべての人に保障されるべきものだからです。
これを国内法で制限することはあってはならないことだと考えられないでしょうか。これらは権力者によって「与えられる」「許可される」「許される」類のものではなく、すでに持っているすべての人の基本的人権であること、それらを守るのはひとりひとりの人間の意思であるということも、もっと知られていていいのではないでしょうか。それは強く思います。願いといっていいほどです。
なぜ、どうして、井の中の蛙大海を知らずのままの幸せでよいと思うようになったのでしょう。人は新しく優しい環境より、慣れた厳しい環境を選んでしまう生き物です。不慣れなものには警戒と不安を覚えるのが防衛本能だらかでしょう。人間の本能が生理的な反応であるならば、しかしながらわたしたちは理性を持つ生き物でもあるのです。自分という人間がこの世界にふたりといないということ、そして絶えることなくつながってきた命の綱の上にのっていることに目を向ければ、「いつか誰かが」するのであれば、その「誰か」は自分であってもいいし、「いつか」は今なのだと考えてよいはずです。むしろ、自分が今ここでしなければ、次はもう永遠にその鎖は切れないのだと、もう誰もが気づいていることでしょう。だってもう「窮屈だ…」と心底感じていると知ってしまった自分自身がいるのですから。
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