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ひとつだけが正解なんてことはないんだ

 問いがあって、正解がある。
 そんな世界に慣れすぎてはいないだろうか。

 つぶやきにフォロワー以外のかたから普段より多くの好反応をいただきました。それと同時にフォロワーの数の減りに気づいてしまいました。

【幼稚園の入園をやめた次女さんの話】

 近所の5歳児さんは、当時6歳だったウチの末っ子の遊び友達で、このつぶやきのなかの「〇〇ちゃん」はウチの子のこと。末っ子の次女さんは公立の幼稚園に見学の名目で1週間ほどを目安に体験入園をしました。公立の幼稚園は、公立小学校と同様に校区の区分けに沿っていて、その地域周辺に住むこどもたちがこぞって入園します。他地域にも公立幼稚園はありますが、そちらは越境になるので、校区の幼稚園に入るか入らないかの二択しかありませんでした。私立幼稚園はありませんでした。
 体験入園は個人的な申し入れでしたが、県外から転入してきた世帯だったからでしょうか、快く受け入れていただけました。体験には私も付き添い、保育時間の1時間程度のお時間をいただいていたのでした。
 けれども、ちょうど予定していたその体験日の最初の3日は臨時の先生でした。本来の教諭が怪我のためお休みされていたからです。よく遊び、よく子どもを見ている先生でしたから、安心してみていられました。
 ところがどうでしょう。
 4日目、次女さんはその幼稚園の玄関にすら入りませんでした。その日から本来の先生が復帰していて、朝の会の様子が玄関先から見えました。見るからに厳しそうな先生でした。ピアノの音にあわせて踊るのが決まりのようですが、決められたとおりに動かか無いとひどい叱責がとびました。その声に驚き、次女さんは二度と、その門をくぐることはないと決意したのでした。おさないながらに耳を傾けてくれそうにない大人の気配と自由がゆるされない檻の気配を感じてしまったのだと思います。

 そんなこんなで幼稚園には通わず、3人の兄姉たちと同様に家庭保育からホームスクールへの移行がほぼ決まったような次女さんでした。こうして書いていくと、また思い出すことがあります。

 入園前の幼稚園説明会のことです。
 保護者達のそばで数人の同級生が伴って連れてこられていました。そのなかで、親のそばで1時間じっと椅子に座って待っていられたのは、次女さんひとりだけだったのです。お絵描きをして、時々ちらりとこちらを見ては、また目をお絵描き帳の上に戻すの繰り返しです。椅子から降りることも一度もありませんでした。ほかの子どもたちといっても2,3名ほどだったのではと思いますが、めいめい会議室を飛び出し、親や付き添いのおばあたちが追いかけなければなりませんでした。その様子を見て、小学校長も兼任されている園長先生が大変感心なさって、お声をかけていただいたことを覚えています。わざわざ近寄ってきて褒めてくださるなんて、とてもお優しい先生なのだなと思いましたし、それがめずらしいことだとはその時は思いもしませんでした。入園を楽しみにしているよとおっしゃっていたので、その期待には応えられず、ちょっとだけ申し訳なかったですね。

 

【「1年生になれないよ」と言ってしまう親の気持ち】

 このつぶやきを見てフォローをはずすしかなかったかたは、もしかしたら不登校の子を持つ親御さんだったのでしょうか。(非相互フォローなのでわからないのです。)あえて「不登校の子」を書きます。なぜなら「学校へ行ってほしいと思っている親御さんのこどもさん」のことを「不登校の子」と言うことが多いからです。それ以外には、ただ単に「学校に行っていない子」という意味しかありませんし、それ以上でもそれ以下でもないのですが、ここに不登校にまつわる偏見と差別社会の闇が潜んでいます。

 「このままガッコウに行かないんだったら、1年生になれないよ」。

 学校に行けない理由を、理解してもらえるように伝えるにはまだ難しい年齢のこどもから、親は納得できる理由を聴くことができません。想像することしかできず、それはますます不安を濃くしていく要素にしかならなかったかもしれません。そして想像以上に、こどもは親を傷つけたくないと考え、わずかな自分の自由を脅かされたくもないとも考え、黙っていることが最良の策になってしまっています。
 この言葉を口にせざるを得ない親の気持ちはいかばかりでしょうか。

 こどもの気持ちが読めず、その心が遠く、どうしてあげたらよいのかがわからない。どうしたら、この子は奮起してくれるのだろうか。どうしたら。

 言葉選びに失敗してしまったのです。
 けれども、その言葉の裏には、こどもを心配する心が確かにあるのです。

 しかし、このセリフを他の人が使った場合はどうなるでしょうか。

 つぶやきのシチュエーションの登場人物は、このようなものです。

幼稚園に行っていない子 Aちゃん
幼稚園に行っているAちゃんの遊びともだちのBちゃん
Aちゃんのお母さん
Bちゃんのお母さん

Bちゃんは、時々幼稚園に行くのを渋ります。
「行きたくないもん。Aちゃんだって行ってないもん!」
Bちゃんのお母さんは、たしなめるように言います。
「Aちゃんはね、幼稚園に行っていないから小学生になれないの。Bちゃんはそんなことしちゃダメ。幼稚園を休んだら行けないよ。さ、行きましょ!」

Bちゃんのお母さんが、Bちゃんに伝えたかったことはなんだったでしょうか。

(Aちゃんとあなたでは事情が違うでしょう。わがままを言ってはいけません。)

 そういうことではなかったでしょうか。これは想像ですが。
しかし、Bちゃんの心の中に残った事実は、ひとつです。

幼稚園に行かない子は、小学生になれない。

 こうして言葉は独り歩きしていきます。このとき5歳のBちゃんには、ただその「事実」だけが残っていて、その言葉にはまだAちゃんを見下すような気持ちはありません。だからAちゃんのお母さんに無邪気に質問したのです。しかし、この幼稚園に行ってほしいBちゃんのお母さんの(あなたは違うでしょ)のまなざしは、やがて上下にみる差別につながる可能性はあります。多様性を受け容れる意味での「違い」ではなく、そうなっていはいけないという戒めの「違い」は、見せしめであることです。そうなれば、やがてBちゃんは、Aちゃんにこの言葉をぶつけることがあるかもしれません。
「幼稚園に行ってないんだから、あなたは小学生にもなれないダメな子なんだよっ!」。それは、いつか再び親からの抑圧を受けた腹いせに使われるだろうと容易に想像できます。


【おとなもまた言葉の裏に隠された優しいメッセージを受け取ることができないでいる】

 学校に行かない我が子に発奮してほしくてかけた言葉も、他人が言えばただの暴力です。そして、我が子への想いのゆえに口から飛び出した言葉であることを理解せずに、字義通りのメッセージをもって、我が子にその言葉をぶつけることも暴力です。
 言葉には隠されたメッセージがあります。そのメッセージを間違えて受け取ってしまうこともあれば、間違ったメッセージを与えることに気づかずにその言葉を使ってしまうこともあるのです。しかし、現代ではなぜか言葉が独り歩きする現象が多く、その言葉が発せられた背景に思いを寄せるような場面があまりみられません。とくにインターネット上ではそのようでもありますし、いわゆるバーチャル世界とよばれて、リアル(現実)と区別されていたそれは、いつしか境界線をなくし、バーチャルがリアルで、リアルがバーチャルと変わらないと受け止められるようにもなっています。
 たとえばチャットの向こうで大多数が募っておしゃべりをしている様子を「場を共有している」と感じるか、「話題を共有している」と感じるかの距離感の違いは、前者が一体感までも感じているのに比べて、後者は実際に目の前で会っている存在感までは感じていません。この感覚の違いは、身にまとう雰囲気や、その場の臨場感までも気配として察することでも、距離感の違いを区別しているかどうかの違いがあるように思います。
 講演内容を録音した素材で聴くことと、実際にその講演に出かけて会場の空気までも肌で感じることに、違いを感じるかどうかという差です。これはどちらが良いかと言いたいわけではなく、どうしようもなく、そういう感性の違いが生じているという事実が存在しているということを言いたいのです。
 このことは言葉の裏に隠されたメッセージをどう受け止めているか、その解釈をした根拠でもある口調や表情、間といった言語以外のコミュニケーションの素因をどこまで感知しているかの感度の違いです。そのニュアンスを読み取り、意図をくみ取れるかというものです。「空気を読む・読まない」という表現で、以前は空気を読まないことが悪とされてきたものが、今や反転して読まなくてもいい、読むほうが悪いとされている風潮も感じます。けれども、事はそんな表面上のことではないのではと感じます。あえて読まないこともあるのだという感性をも否定されかねません。

 そんな感性を育まれていないこどももいれば、そうしてすでにおとなになったかつてのこどもたちも多くいるということに気づかなければいけないと思っています。

 

【感性の豊かさは、同じ感性で通じ合いやすい】

 感知するアンテナの感度により、感性は異なります。それは同じ番組を受け取る周波数が違っているようなもので、さらに、その感度も違っています。すると、同じ話を聴いていても、解釈は相当に違ってきます。違う解釈を、違うよと説明したくても、受け取る周波数が違うので、相手の周波数に合わせないと音が届きません。結局、どう違うのかと理解しあうことは難しいと思わざるを得ない場面にはよく合います。同じ周波数だと、通じ合いやすいので安心感を得ます。でも決して、ずっと通じ合えないというわけではないとは思いたいです。
 ただ通じ合いにくいとわかることは、距離感をはかるひとつの指標にもなります。どちらかが間違っているのではなく、ただ単に今は周波数が違っていて、周波数の切り替えをするのは難しいだけなのだと考えれば、少しは気も落ち着くのではないでしょうか。そうだといいのになと思います。

 

【自助グループから、サポートへ。ステップアップ】

 このつぶやきで少なからず心が乱れ、フォローをはずさざるを得なかったかたがいるのではないだろうか、と思わずにいられませんでした。

 不登校の子を持つ親の例で言えば、「学校には行かなければならない」と考え、学校にこどもを行かせられていないことへの罪悪感を抱える段階で必要なことは、こどもの将来を整えるための情報収集ではありません。このとき必要なのは自助グループ、すなわち同じ立場の人たちと共にいるピア・サポートであり、否定も肯定もされず、ただひたすら傾聴されるピア・カウンセリングです。
 「学校に行かなけらばならない」という想い、このつぶやきでいえば「幼稚園に行かないと、小学生になれないよ」と言ってしまうことや言いたくなる気持ちを否定されないこと、正しいよと肯定もされないことが重要なのです。そこで自分のどんな気持ちであっても、受け容れられることが必要不可欠なのです。そうして初めて、安心を得、安全を感じ、心からほっとできるのです。こころが安定することで、はじめて枯渇したエネルギーが満たされていくことを感じることができます。それは絶対に必要なんです。
 親の会などが、そういう役割をしてくれます。そしてこれはこども本人にとっても必要な、親子共に必要な、休養と休息の時期なんですね。それぞれに、その場が必要です。それは公開されていないことが望ましく、同じ立場であるメンバーで構成されていることが条件です。しかし、そこはやがて卒業する場なのだと自覚することはもっと重要なことです。

 人は楽な方へ流れたがるとよく言われます。同じ場にとどまり、そこで肯定され続ければ、自分の考えを再検討することもなく、問い直すこともなく、つまり自分を変えなくてもよいからです。それはとてもエネルギーが必要なことです。ですから、このピア・サポートの場で充分なエネルギー補充の時間が必要になるのです。しかし、そのエネルギーをうっぷんを晴らすような形で穴からこぼしてしまうような行為が「承認欲求を満たす」行為です。twitterのように公開され、いろんな立場の人の目にとまる機会では、その危険が高まるように見受けられます。
 学校に行けなくなったこどもたちがそうであるように、完全に自分の身を守ることができていると感じる洞窟に身を潜めるようなことが、実は親の方にも必要だったりするのです。それを妨げるのは「早くどうにかしないといけない」と善意からくる助言、「しっかり」「きちんと」と押し付けられる正義です。このことにより休養も休息も得てはいけないのだと追い込まれてしまいます。そしてどうにかするエネルギーが満たされないまま、どうにかしようと情報収集に出かけてしまうのです。そうすると判断力が無いままですから、適切な情報かどうかを見極めることができず、振り回されることになります。その子にとっての今必要な適切なことではなく、誰にとっても合格をもらえるような正解をあてはめようと、自分にもこどもにも無理させてしまうことになるのでしょう。

 充分な休養と休息が必要です。
 問題と思っていることについて「考えない」時間を意識してつくってください。

 もし、この段階にいるとしたら、上記のつぶやきは「正論」として大変苦しく感じるでしょう。もしそうなら、「今はまだ休養と休息が必要なのだ」と自覚するきっかけにしてほしいと願わずにいられません。

 

 エネルギーが充分に満たされたのなら、充分な気力を養うことができたら、そのときは十分な知恵を工夫が湧いて出てきます。数多くの多様で、多角的な情報を受け取る準備ができています。そうして、冷静な判断力で、なにを望んでいるのかが明らかになっているはずですから、他のだれでもない、我が子にとって、自分たち家族にとっての最良を選び取ることができるはずです。誰にとっても合格のたったひとつの正解やベストを選ぶことはしなくてもいいですから。


【先生にも必要なこと・人生観の問い直し】

 休養と休息が必要なのは先生方も同じです。いったん教師という立場は横に置いて、エネルギーを満たし、あらためて個人の価値観として問い直してみる機会をもってほしいととても思います。それが、学校と、学校以外のそのほかの多様なまなびの機会にたずさわる人々の間でできるまなびあいだと私は思います。
 そういった価値観の問い直しがないままでは、多様なまなびを学校に取り込むカタチが正解であると思い込んでしまうのではないかと危惧するからです。

 教師という個の立場でもつべき価値観と、自分自身というたったひとりの存在である個人として持つべき価値観を問い直すことは、双方の価値観の剥離をみつけてしまうきっかけになることは充分にあります。近いものであれば、なんら問題はありません。ちょっとだけ優先順位を決めればよいだけのことだからです。
 しかし時代は過ぎ、学校が学校として存在するカタチと時代はそぐわなくなってきました。個人としての人生観、世界観を問い直すことで、教師と言う職にどのように臨み、どのような働き方を実現していくのかもまた変容していくのではと思うのです。
 人はいつでも初めてのことに出会い、考え、成長していける。その姿を、これからも生徒にしめしてほしいと願っていますし、個人の幸せを追求するひとりの人間として、家族の一員の前でもそうであってほしいとの願いがあります。


 立場を超えて、
人と人とのまなびあい・そだちあい・つなぎあい が
どうか実現しますように。

 ホームスクーリング・センターkokageの想いを、その3つのワードに込めています。

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