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書くかスキをしなくても想いは届くのかもしれない。致死率100%と嘆くより今を叫ぼう。平井大『祈り花』と柴田翔『ノンちゃんの冒険』と星野源さん

本来は思考のプロセスを解説するべきなのだけれど、「なんとなく」で済ませてしまおう。noteをはじめ、面白いものに飛びついてはスキをしコメントをしてきた。それでも時間は有限。いつかスキもコメントも返しきれなくなる。そして、人間の生も有限。致死率100パーセント。とても楽しかった記憶も消え去る。すべてが無に帰するから無意味だと虚無的になるよりは、瞬間を生きてもいいのかなと思った。

私は記憶力がかなり悪いと自負している。例えば、ほかの人々と同じ時間を共有していたはずなのに、思い出話を彼らと語るとき、彼らはあたかもその瞬間に戻って、その時の感情や情景までも思い出して語り合っているように見えるが、私は「日記で何年何月何日こういったことがあった。」に毛が生えた程度にしか思い出せない。もしくは完全に抜け落ちていて、「こんなことがあったよね?」と言われても、本当にそんなことがあったのかに確証が持てないということが多々ある。

認知症、若年アルツハイマーなどではないのだろうが、これに関してはかなり暗い気持ちになる。一緒にいる人と思い出を積み上げていけないのだ。絶望もしたし、深淵を覗き込んだような気分に陥る。その暗い影は私に付きまとい、ことあるごとに私を飲み込もうとしてきた。基本戦略は「紛らわす」だった。あたかも死を直視するのを恐れる人間が死について考えずにいるかのように。

多少誇張した表現になっているかもしれない。恐ろしいことに、この絶望はまたそのうち私に力を増して訪れるだろうということだ。致死率100%と同じ。双極性人格障害のごとく、周期的に訪れるかもしれない。というより、完全な絶望に陥り、抜け出せずに生命を終える可能性だってあるのだ。

だが、仮にそうだとして、それがどうだというのだろうか。ささやかながらも、私はこの生において、ちょっとだけの勇気は発揮したではないか。空虚を感じながらも、健気に生きた瞬間はあった。

偶然読んだsenninkameさんの記事とその最後に紹介されていた平井大さんの祈り花。ウクレレの演奏を聴いて、何かが私の中でさざ波を立てた。変わったというほどのものではなく、ただその瞬間に感じたというだけで、この記憶もすぐに消え去ってしまうのかもしれないが。

愛しいあなたに届け祈り花 苦しみも痛みも全部 愛に変えて
生きる強さを 信じる力を 孤独の辛さも愛することその意味も全部
僕が僕でいられる力を あたえてくれた人を忘れない

平井大さんの亡くなった祖母に向けて作った曲だそうだ。

記事へのスキやコメントを簡単にはできない人もたくさんいるだろう。自分が語るべきことなどない。何を書けばいいのかわからない。そんな風に感じているかもしれない。でも、そんな人の想いの方が、コメントを書くのに慣れている人の美辞麗句よりも、本当は深いのかもしれない。そして、発せられなかった好きや、言葉の主がもうこの世界にいなくなっていたとしても、見えない世界ではちゃんと星野源さんが『いのちの車窓から』で書いていた電波のように時空を超えて届いているのかもしれない。

そんなことを思った。

そして、ただ紹介されていたYoutubeのウクレレの曲を聴いていた。

最後に好きな本の紹介。
柴田翔『ノンちゃんの冒険』

いつかこの本に関してはもっと細かく書くかもしれないけれど、気分が落ちている時に気晴らしに読んでみるのもいいかもしれない。

人類史とは空虚ながらも健気に生きてきた個人史の集積

ピンとこないだろうが、ノンちゃんの冒険を読み進めていって、このフレーズに出くわしたならば、なにか感じるところがあるでしょう。それは私の主観なので保証はしませんが。

ギターもろくに弾けないのに、ウクレレを弾いてみたくなった たわしおじさんでした。

過去を引きずるよりタワシを引きずれ。

今を全力で楽しもう。

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