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父と母

さきほど家族旅行が終わった。
家族から解放されたことで、離れられたことからの安堵感とともに寂しさが少しだけ身体に残っている。
そのままビールを口に含み、枝豆をつまみながらこの文章を書く。

いつもと違い普通の日記というものをただの日々の振り返りと呼べるようなものを書きたくなった。これまでの自分の文章はそのような普通の文章がなかったように思う。
それは自分の嗜好ゆえにポップなもの、つまり、なんとなく目で追いたくなってしまうリズムがなぜかあるような文章を書きたいと思ってきたからだと思う。

おそらく川上未映子の詩や日記のようなものが好きで普段そのような表現を好んで触れてきたからで、彼女が言葉を実験する場所として日記を使っていたことに強く影響を受けている。


現在進行形で両親含め家族に私の進路、就職先について反対されており、旅行中は言い争いになることも多かった。

とにかく、とても疲れた。
親が言うことも正しく、私が言うことも正しい。
そのうえでの話し合いであり、何かしら妥協というか諦めというようなものをできるようになるための過程だった。
ずっと過去にあった何かを繰り返しているのではないかと思わされ、無力感に囚われることも多かった。
まだ話し合いは続いており、解決しているわけではない。

ただ収穫もあった。話し合いの過程で父と母に感じたことを以下に書く。


父は意味に正しさに囚われ続けていた。
こうしたほうがいいでしょということをただ言うだけだった。
そのアドバイスは、私個人に対してのものではなかった。つまりは、私の属性から一般化された理念的な存在に対してのアドバイスであり、私のことを無視しようとしていないにも関わらず、私個人のあり方を否認していた。

彼が私に投げかけた言葉は、彼が彼自身に対してこれまでかけてきた言葉だったのだと思う。
彼のここ二十年くらいの主な読書歴は、司馬遼太郎やビジネス本の類であって、彼が経営者としてあるために自分に投げてきた言葉だったのだと思う。
彼は職業上の必要として、さらには家族を養うために健康的である必要があった。
彼は自己啓発本から学んだ、一般的で健康的なあり方を彼自身のものとして作り上げる必要があり、その結果、健康的なあり方は彼個人の精神面に内面化されるとともに、彼自身の習慣、行動、肉体とその捉え方として血肉化された。
彼はそれ以前は安部公房などを愛読していたのにも関わらず、彼はその趣味の意味づけを反社会的なものとしてのみ理解するように至った。彼の歴史は整除されきったものであり後悔や目眩を含まず、それは私たちの言語化能力が拙いように言葉不足のまま神話と似た形式に至る。健康的なあり方を維持するために。思いやりがいじめを生むように、つまり、教室の秩序、同質性を守るために供儀を必要とされるように。異性愛規範のために同性愛嫌悪が必要とされるように。

彼自身は何も変わる気がないままに秩序から逃れただけというものに対して「反」というラベルを張ることによって、初めから約束された健康を獲得し、彼自身の信念を強めていく。
さらにはたまに村上春樹を再読しほんの少しだけ「反」的なあり方を懐かしむことによって、健康の信念が強大化しすぎることによって反社会的になることを防ぎ、適度な健康を維持する。
その実、彼の健康は自分自身を変化できるための余裕を含まないし、余裕を持つ動機も抑圧されており外に開かれていない。


母はもう少し事情が異なる。
まだ依然として反対されているけれど、父とは異なり社会的一般像に対する意味づけだけでなく、私個人の精神的、肉体的なあり方に対しての目線を持った上での会話ができるようになった。

これは母はこれまでの人生の中で良くも悪くも彷徨い続けてきたからだと思う。
彼女は安くはないが高すぎるわけではない健康食品、ダイエット食品、簡易的な運動器具、占い、風水、大して有害ですらない陰謀論、安逸な心理学などにこれまでの人生の少なくない時間、心労、お金を費やしてきた。
私が知る限り彼女は元から癇癪持ちであったし、今も昔も偏った意見を持つ。

しかし私たちの身体には歴史がある。
彼女には感情的であり彷徨い続けてきたからこその歴史が潜在している。思うに、彼女の身体は彼女の精神にとって不透明な時が多かった。だからこそ、彼女は不透明な身体について、そしてままならなさ、できなさについての感度を失っていない。

だから、母との話し合いの中では、まず初めは体力の安定性のなさゆえの疲労もあり感情的な反論が過激な形でなされることが多いが、さらなる疲労とともに反論することすらも疲れてきて初めの偏見にとってつけた論理が溶けてくると、次第に母は論理、意味、正しさの殻を外した感情、情動を小さく言葉にし始める。
さらには、私が情動を言葉にした際に、私の情動の存在を少なくとも認めることができるようになる。彼女には身体があることによって、身体があるものとしての相手のことを捉えられる瞬間があるときやってくる。
彼女の身体の偏り、彼女の不健康さの歴史ゆえに他者の身体に対して時に開かれる。

そのとき初めて言葉が通じるようになる。私の身体を私自身の個体性を否認しきれなくなる。

私はこの情動、欲望、身体の有限性の無意味のレベルに達する瞬間がたまにあるからこそ、人と会話をすることの意味を感じ、会話を諦めないことをかろうじてできているように感じる。普段一般的なものに対して必要以上の意味づけをすることがなくなり、違和、乖離を感じることの多い私は、この身体の零度の瞬間の度に少しだけ息継ぎしてもう少しだけと生き延びているような気がする。

P.S.
良くも悪くも相当一般性の高いエッセイになったように感じますが一般化されすぎないことを望みます。特に父と母からは男と女という一般的なジェンダー差まで想起しやすい部分であり注意が必要です。具体的な人の内面、抽象的な構造の両方に還元しすぎることなく、また、女性と女性性、男性と男性性を区別して読んで欲しいです。

また、最近三島由紀夫が美徳のよろめきや愛の渇きの中で描かれた女性像に対して自分のあり方を重ねることが多いです。

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