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街スナップの非対称性

一年ほど前に実家でカメラを発見してから私の趣味は写真になりつつある。

写真が趣味といっても野鳥から鉄道、ポートレートまでさまざまであるが、私の場合には街スナップが主である。

スナップは歩きながら偶発的なイベントをカメラに収める物であり、街スナップは街で散歩をしながらスナップする事である。

街を撮るのであるからビルや街路樹はもちろん街を構成する人々も被写体になりうる。敏感なひとなら肖像権の侵害と指摘されるかもしれないが、個人やプライバシーが特定されず、公道のような公共性のある場所から写真を撮ることは問題無いと総合的な判断をしている。この点に関して法的に間違っていることがあれば是非指摘して欲しい。

もちろん街はひとが居てこその街であると思っているから表現の為に人を撮ることがあるのだが、この前スナップをしているときにふとこんなことが頭に浮かんだ。

「僕はスナップを撮るために意識的に道のことも人のことも見ているが撮られる人は私のことをどのように見ているのだろうか」

人にカメラのレンズを向けるとき(スマホのカメラを向けるときよりも数倍も)警戒して、怪訝そうな顔をこちらに向ける(あるいはシャッターを切られないように顔を背ける)。もちろん撮られるのがイヤそうな人の写真は撮らないようにしているが、後ろ姿など一方的に見られて撮られるときもあるし、人が背景の一部になる事もある。

このとき明らかに視線のベクトルは私からの一方通行である。意識が一方的なのだ。

この公での意識の一方通行は街スナップにかぎらずよく起る。
例えば、歩きスマホをしている人。大抵は周りのことは見えておらず自分は慣れた道をまっすぐ歩けていると思っている。自分のことだけを考えて歩いていて、自分の進行方向を周りの歩行者に(ほとんどの場合は意図せずに)一方的に伝えていることになる。これも街での意思の一方通行ではないだろうか?これは歩きスマホにかぎらず、狭い道を広がって歩く集団、ゆっくり歩き時には前触れもなく立ち止まる人などにも当てはまる。

僕は彼らにいらいらさせられてきたが、一方通行という点では周りに及ぼす影響、害とは言わないがちょっとしたイライラについては同じかもしれません。

しかし、公共での写真撮影は公共で我々が普段ものを見ているように同じことではないのでしょうか?保存して他人に見せられ自分でも後から見返すことができるという特性もありますが、それを除けば、見ることと撮影することは機械を通してみるか生体機能の目を使うかどうかの違いだけで「見る」という行為には違いはない。(ここでは法令上の撮影に伴う事象は脇に置いています。もちろん盗撮を含めたプライバシーの侵害や肖像権の侵害などをしないスマホを含むカメラを持つ者の倫理は持ち合わせていなければなりません。)

それ以来、私はなぜ街を撮るのか、掴めない答えを探さなければならないように街に思わせられている。


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