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建築と子育て、あるいは心の余裕と理想への距離

わたしは建築設計を仕事にしており、私生活では1歳ちょっとになる子供がいるのだが、建築と子育ては似ているな、と思ったことがある。

どちらも、自分の思うままにならない、という点が似ている。


建築

建築は、いうまでもなくある固有の土地のうえにつくられる。

その固有の土地には固有の風土や習慣、制度がある。
具体的には都市計画法や建築基準法などの法律であったり、暑さや寒さ・降雪などの気象条件、その建築を利用するユーザーやその所属する集団の文化や宗教、もちろん予算も重要な要素である。

建築のつくり手は各種のパラメータを分析・整理しながら、微妙な調整を試行錯誤して設計や建設を行う。似たような見た目の家々が並ぶ住宅街の風景でも、それぞれの住宅の間には試行錯誤の結果としての無数の差異がある。

パラメータの数は制約の数でもある。だから建築をつくるときに、オーナーやつくり手が自由にできる要素はかなり少ない。


つくり手はそれらのパラメータ=制約を前提にものづくりに向き合う。制約がアイデアの源となり、制約を逆手に取ったデザインを考え出することもある。制約をかいくぐって創造する快感もある。

むしろ、制約のないところで創造をすることのほうが難しいかもしれない。


子育て

子育ては、子供の個性と向き合うことの連続だと感じる。

子供を持つと、子供を持つ前には気づき得なかった、ひとりひとりの子供の個性に気が付く。

個性とは「差異」のことだ。

同じ時期に生まれた子供でも、育つにつれその差異はますます大きくなっていく。

育児にまつわるキーワード、たとえば「夜泣き」について検索すると、数多の指南が発見できる。

「夜泣きのときは放置して様子を見たほうがいい」という小児科医の見解もあれば「抱きあげてあやしたらすぐに泣き止んだ」という個人の経験談もある。

どちらの意見が正しいかどうか、ということは子育てをする上ではそこまで重要ではなく「目の前にいる自分の子供がどうやったら泣き止むか」こそが親にとっての課題になる。

放置したりあやしたりしても泣き止まなければ、自分なりの解決策をその場で探すしかない。
ミルクをあげたり、いったん起こして遊んであげることも、場合によっては解決策になりうる。要するに、その子供の個性に向き合った対応こそが、子育ての現場では求められる。

「~すべきだ」という、一般論にはめ込んでいこうとしすぎると、親も子供もどんどん窮屈になる。端的に言えば目の前の子供との時間を楽しめなくなる。
一般論と現実との差異をみることも、子育ての楽しさだとわたしは思う。


できるようになること

建築と子育て、どちらもその個性に向き合う/差異を前提に考える、という点で共通しているように感じる。
個性/差異は活動の制約だが、同時にその制約に向き合うことこそが、建築/子育てのよろこびの源泉になる。

子供が産まれて一年と少ししか経っていないのだが、わたしの中では、建築に向き合う時のスタンスと、子育てに向き合うスタンスが、限りなく近しくなってきているのを感じる。

子育てに関しては、なんやかんやありながら大抵のことが自力でできるようになってきた(と思っているのは自分だけかもしれず、妻からの疑念の声が聞こえてくるような気もするが)。

建築の方も同じで、初めの頃は目の前のことしか見えていなかったのが、この仕事を10年近くやっていると、大抵のトラブルは解決できるという自信がついてくる。


建築にしても子育てにしても、その建築/子どもの個性に向き合い最大限に尊重しながら、日々の微妙な変化やちょっとしたトラブルにもポジティブな気持ちで向き合える、いまはそういう心の余裕がある。


心の余裕と理想への距離

それは反面「経験値にあぐらをかいている」だけなのではないか、とも思ったりする。

経験値はそれまでの努力の成果だが、努力を続けることをやめれば経験値の価値は目減りしていく。

経験からくる心の余裕があるのだったら、そこから更なる高みを目指して努力すべきだ、と言われればその通りだ。

建築設計で身を立てるという志を持ったのはもう15年近く前だろうか。そのときには、もっと大きな野望とか夢みたいなものを抱いていた気もするが、ハッキリとは覚えていない。

建築学生だった頃、あるいは学校を卒業してすぐの会社員だった頃は、厳しい先生や先輩に囲まれてめちゃくちゃ鍛えられた。

「おまえ、そんなヌルい設計してていいのか?」と、わたしの心の中に居座っている先生や先輩が、現在のわたしに語りかけてくる。


子育ても同じかもしれない。

わたしはその場その場で子供をあやしたり家事をこなすことに長けているだけで、本当に子供の将来を真剣に考えて行動しているのだろうか。問われれば心許ない。

子供の将来のことを真剣に考えれば、まだまだできることがあるのではないか、とも思ったりする。



そういうわたしのスタンスは、消極的・受動的にも見える。

決して理想を追い求めることをやめたわけではない。自分なりの努力はしている。

しかし、遥か遠くにあるかないかも分からない幻のような理想のために、目の前の現実を楽しむ心の余裕を手放したくない。

その余裕は同僚やクライアントのため、あるいは家族のために必要な余裕でもあるからだ。



「お前、そんなんでいいのかよ」という内なる誰かの声を聴く。

どこかに存在する「理想」と「自分」との距離を推しはかり、その距離を測っただけで、なかば満足してしまっている自分がいる。

そんなふうにぐるぐると思考を巡らせてしまうところも、建築と子育ての共通点かもしれない。

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