ただの20代吉本芸人が、ヴィーガンになった日②
(続き)
※「ただの20代吉本芸人が、ヴィーガンになった日①」はこちら
思えば、以前から違和感はあった。
しかし、その違和感は、無意識に、
いや、意識的に消去しようとしていたのだ。
その方法は、いま思えばひどいものだった。
とんかつを食べながら、妻と二人で
「でも、これも豚さん、殺してるんだよね…」
そして、二人で顔を見合わせながら、さも悲しげな表情を示し合う。
これだけ。
スーパーや飲食店に並ぶ肉からは、それまでの過程はまったく読み取れない。
いま思えば、以前の僕も、食肉にかかわるすべての人も、本当によくやっていたと思う。
「おいしいものを食べ続けたい」
「各々の生活のため、この経済活動を止めたくない」
この利害の一致により、この世界では、自ら積極的に情報を得ようとしない限り、肉を食べることに罪悪感を抱く人は少ない。
─────もともと、哲学的な志向をもっていると言われる。
「我思う、ゆえに我あり」
言い換えれば、自分以外の生き物は本当にそこに存在しているのか、
自分と同じように自我があるかどうかは分からないのだ。
(いや、自分もいま本当に存在しているのか、昨日の自分、10年前から継続的に存在しているかのようなこの記憶も定かではないのだが、それは一旦置いておいて)
コメントを読んで(※前回「ただの20代吉本芸人が、ヴィーガンになった日①」参照)、畜産の現実を知って、僕が真っ先に考えたのは、実はこれだった。
僕と同じように自我があって、「喜び」、「悲しみ」、「怒り」、「驚き」、「恐れ」、「嫌悪」といった感情もある。
そんな彼らが、劣悪な環境で一生を過ごし、最期には極限ともいえる恐怖や、悶絶するほどの痛みを感じながら、短い生涯を終えるなんて、、
…もう、発狂してしまいそうです。
仮に、自分以外のすべての生物に自分と同じような自我などはなく、ただ機械的に、ただ存在しているかのようにみえるだけだとしたら、
たとえば、この世界、宇宙は、たった一つのマイクロチップのなかにあるかのように、僕では到底理解できない概念で、特に意味などないとしたら、
どんなに心が楽になるだろうか。
だとすれば、まさに世界でたった一人である自分の一生を、より有意義なものにするため、より幸福の時間を増やすため、これまで通り、おいしい肉を食べ続けるのもありなのかも。
こうも考えました。
そうすれば、過去を悔いることも、現状に絶望することもないのだから。
できればこの認識のもと、なにも考えず、これまで通りに生活してゆきたかった。
ただ、悲しいことに、その確証がもてない。
僕たちが宇宙を理解しきれていないように、それぞれの自我の有無、ひいてはこの世界の成り立ちについて、なんら証明はできていないのである。
したがって、一般的な認識通り、この世界のすべての動物に、自分と同じように自我や感情がある可能性は充分にあるのだ。
もし、そうだとしたら………。
…………。
…………。
…………。
…………。
…………。
いやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ
やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて
─────そして僕は妻に、かいつまんで話した。
「子猫物語」のレビューコメント、畜産の現状、
そして、肉を食べなくてもいい生き方があること。
もともと、感性や(HSP的な)気質が近いこと、
そしてなにより、ともに動物が好きだから、理解は早かった。
こうして、夫婦のヴィーガン生活がはじまったのだ。
「そうだったんだ…。じゃあ、そうしよう。そうするしかないよ」
この世界の現実は、彼女の、20数年におよぶ習慣と価値観をひっくり返すには充分すぎるほど、あまりに、残酷だったのだ。