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能「皇帝」に思うこと その4

金剛巌先生と皇帝

金剛流の先代御宗家と先々代御宗家は「金剛巌(こんごういわお)」というお名前で、時代を考えると陰翳礼讃の中では先々代の御宗家の事を言及している。

“かつて私は、「皇帝」の能で楊貴妃に扮した金剛巌氏を見た事があったが、袖口から覗いているその手の美しかったことを今も忘れない。”
谷崎潤一郎「陰翳礼讃」より


今から100年前に起こった関東大震災の影響で京都に移った谷崎潤一郎が、おそらく金剛能楽堂で見た事を思い出しているのだと推測される。陰翳礼讃が出版されたのが90年前なので、執筆の数年ほど前の事であろう。

能においては、衣裳の外へ露(あらわ)われる肉体はほんの僅かな部分であって、顔と、襟くびと、手頸から指の先までに過ぎず、楊貴妃のように面を附けている時は顔さえ隠れてしまうのであるが、それでいてその僅かな部分の色つやが異様に印象的になる。
谷崎潤一郎「陰翳礼讃」より


楊貴妃の役は子方でもツレでも勤める事があるのだそうだが、この時はおそらくツレだったのだろう。海外のアーティストが話す「陰翳礼讃」の世界が急に自分の世界と繋がった瞬間だった。その後の文章もとても興味深いものだった。

もし能楽が歌舞伎のように近代の照明を用いたとしたら、それらの美感は悉くどぎつい光線のために飛び散ってしまうであろう。さればその舞台を昔ながらの暗さに任してあるのは、必然の約束に従っている訳であって、建物なども古ければ古い程いゝ。床が自然のつやを帯びて柱や鏡板などが黒光りに光り、梁から軒先の闇が大きな吊り鐘を伏せたように役者の頭上へ蔽いかぶさっている舞台、そういう場所が最も適しているのであって、その点から云えば近頃能楽が朝日会館や公会堂へ進出するのは、結構なことに違いないけれども、そのほんとうの持ち味は半分以上失われていると思われる。
谷崎潤一郎「陰翳礼讃」より

能楽のほんとうの持ち味

もしも現在・能楽堂で用いる照明が谷崎のいう「近代の照明」だとしたら、ほんとうの持ち味は既に半分以上失われていることになる。これはいささかショックだった。逆にそれまでは「能楽はなぜ照明効果を狙わないのだろう。もっと演出があってもいいのに」なんてことを考えたりもしたからだ。

能楽の照明は基本的に地明かりで、照明を転換することは近年においても稀である。なぜ照明をあえて“放置”しているのだろうか。そして、能楽のほんとうの持ち味とは何なのか。それを活かす照明とは、一体なんだろうか。……そのヒントは昔の演能形態「五番立て」に隠されていた。

つづく

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