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農のある暮らし#1
自分にとって今年のテーマは“農のある暮らし”です。
農のある暮らしとは何か、それをどうやって実現するのかを考えてみたいと思います。
なぜ今農のある暮らしなのか?
自分にとって農業とは、実家の家業であり、とても身近な存在でありました。両親が苦労して、農業で稼いでくれたお陰で、今の自分の生活がある訳です。
しかし、その反面で親の苦労を身近で見ていたため、生業としての農業は出来ればやりたくないという思いが強く、幸いにも大学を出て、今の会社に勤める事が出来たため、稼業としての農業をする機会はなかったと言えます。
しかし、実際兄弟で誰も農業を継ぐものもおらず、高齢となって両親の事を考えると、いつか実家の財産と田畑をどうするかに向き合う必要があると言えます。
そうした自分自身のバックボーンがあるが故に、農というキーワードは常に人生の中にあり続けたと言えます。しかし、具体的に何か行動に移せたかといえば、コミュニティガーデンの会員に数年いた程度で、まともに作物を収穫できるだけのノウハウも身についていないといえます。
それでも、“農のある暮らし”とは自分自身にとってはノスタルジーであり、DNAに刻まれた運命的なものであると感じます。
ではどうやって“農のある暮らし”を実現するのか?
それは、“農”とは何かとも言えます。
農業と言えば産業としてのカテゴリーですし、経済活動です。つまり、農業生産物の経済価値を言う事になりますが、農とは、その生活、文化の事と捉えたいです。
この先の農業は、かつての農のある暮らしの延長線ではなく、近代農業手法を賢く取り入れる事によって、農業生産物の付加価値をいかに高くすることができるかに掛かっていると言えます。既に、そのような新しい農業の成功事例も多く聞くようになりました。
しかし私が考える農のある暮らしとは、経済活動としての農業ではなく、農のある暮らしの歴史と文化であり、日本と一括りに出来ない地域の暮らしそのものです。
そういう意味では、日本ではつい最近まで、縄文や弥生の生活様式を地方では色濃く残して生活をしていたのではないでしょうか。
しかし、それを近代化、現代化の中でその色がどんどん失われて来たと言えます。
ただ、変わってしまった生活様式をかつてのように戻せるかと言えば、それは難しい訳で、その要素を如何に現代に合わせたものとして表現するかが非常に大事だと言えます。
植物を育てるという行為には、単に野菜を収穫するという意味以上に私たちに取って学ぶべき事が沢山あると言えます。
また、アウトドアやキャンプが見直されているように、屋外での活動は、人が生活していくためにも必要な要素だと言えます。
しかし、農のある暮らしはこれまでの人類に取ってのユートピア、桃源郷でありながら、それを持続可能なかたちで実現出来た事はありません。
縄文時代が1万年以上続いたと言っても、ずっと豊かに生活出来ていた訳ではなく、常に飢えと危険に晒されながら何とか命を繋いできたのだと言えます。
江戸時代においても、何度も飢饉に見舞われていたのですから、単にあるがままの農の姿を受け入れるだけでは、決して豊かとは言えないではないかという、言い難い危機意識がじぶんの中にはあり、それ故に躊躇させてしまう要素となっている事も否めません。
それゆえに、そのあたりの経済的なバランスをどのように考えていくかを引き続き考えていきたいと思っています。
良いアイデア、参考にすべき事例があれば、皆様からのコメントを頂けると幸いです。