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「サードプレイス」としての京都論

ここ最近、3泊4日ほどで京都の旅行(それも2回)へ訪れている。大変お金持ちになったもんだな、と思われるかもしれませんが、モノは捉えようであるとよく言います。私の場合は、逆に「ここ(日常)を抜け出さなくてはいけない」と思わされる回数が増えたということと同義であるし、旅行とは、そのためにあると思っている。

ペール・アンデション著「旅の効用: 人はなぜ移動するのか」では、このような一文もあった。

現実から離れることで、諸問題が解決されるのを期待しているのである。

旅の効用: 人はなぜ移動するのか

問題に対してアクションを起こさず、現実から離れてしまうのでは、諸問題は解決されるはずがないため、それは結局、期待や祈りしかならないのだけども。

まあ、この論点は今回は必要ない。今回は、「京都」を旅行先としてではなく「サードプレイス」として捉えるのはどうだろうかという話(というか、捉えるようになったという話)。
*サードプレイスとは、自宅や学校、職場とは「別の居心地の良い場所」のこと。カフェや公園などが代表例として挙げられる。

最初は10月の滞在。京都に行ったら清水寺をはじめとする「寺社仏閣」界隈への来訪は必須である、という生まれた時からの母の教えを破ってみたい一心だった。「破ってみたい」というより、そもそも疑念があった。寺社仏閣に訪れても、明確につまらないから。中学の時の修学旅行も、「寺社仏閣」界隈の思い出はマジで何にもない。ここがすごかった、よかった。みたいな思い出が全くない。旅行の正解ってこれでいいんだっけ?と京都に訪れるたびに毎回そうなるのである。だから、1人で来てそのサイレントマジョリティに打ち勝ちたかった。

こうした思いで、行ったさ。東京でもできることを京都で楽しんだ。まず、期間限定のアンビエント音楽の展示イベントに行った。夢にまで見た「Ambient Kyoto」だ。アンビエント音楽と光・映像のリンクが凄まじい作品が特別な形(例えば、スモークが焚かれた空間で光と音楽が容赦なく放出されるやつ<これはCorneliusの「霧夢中」だけど>とか)で展示されているやつ。坂本龍一さんの展示も2時間見た。これは、京都でしかやっていないイベントだけれど、同じ来場者の方々に現実離れした品格・雰囲気を感じた。その道を極めている人が多い気がした。どういうことか。藤原ヒロシみたいな人が多くてちょっぴり怖かったんだけど、そこが逆に体験を日常離れへと昇華させた。東京で同じような展示をやる、となったら少なからずインフルエンサー的なる人たちが自撮りを撮って帰っていくだけのスポットになってしまうのではないかという懸念がある。そんな懸念を一切感じさせない侘び寂びを感じることができた。

夜は、tofubeatsのライブを楽しみました。東京でもできることなのに、なんだか良かった。tofubeatsの関西弁が、私が京都にいることを強く自覚させてくれた。(本人は神戸出身)余談ですが、坂本龍一の作品と高橋幸宏が参加しているMETAFIVEの「環境と心理」に入り浸っていた時期だったので、tofubeatsがYMOの「イエローマジック」を流していた時はAM2:00なのに涙出た。10:00チェックアウトなのに、朝5時まで京都のクラブメトロにおり、会場を出た瞬間、周りはビルではなくて鴨川が流れていて、京都、やるじゃん、めっちゃいいじゃんとなった。都市の象徴でもあるクラブと一級河川が共存する町こそ京都なのである。睡眠時間が取れなかったため、チェックアウトの時間を延長してもらった。後悔はなかった。現実から抜け出すための旅行に縛りなんて必要ない。

起きて、河原町(京都唯一の若者に人気の町、イメージは下北と新宿がそれぞれ0.5倍になって合体したみたいな感じ)の方へ向かった。錦市場を通り、海なし県の京都で、海鮮丼を食べている人を横目に見ながら、どこでも食べられるラーメンを食べました。東京にもあるような町だけど、自分にはやはり浮き足立つ感じがあった。それは、常に観光客を後悔させない準備ができている、と言わんばかりの店員の優しさとめでたく迎え入れてもらうことができた観光客のハイテンションさが織りなす雰囲気にあるのかもしれないな、とゴボウの天ぷらが入った豚骨ラーメンを食べて思いました。ゴボウの天ぷらを入れちゃうなんて鳥羽周作(広末涼子と一悶着あった人)もびっくりのラーメンです。ラーメンを食べて、街をちょっと歩いて、イッセイミヤケの京都の店舗が、京都府特有の景観を守る条例の餌食となっていることを確認できたところで、新幹線に乗って帰りました。イッセイミヤケについてはなんでもいいし、当たり前のことなんだけど、あの景観を守る条例が京都の動脈だと思っている。あの景観があることで、人は優しくなれる。景観により、ここが京都であることを自覚することで、日常ではキレていた場面も許す努力ができる。

11月は、より「日常」をテーマに京都で過ごすことに決めた。サブテーマで「読書」もあった。私は、喫茶での読書を日課としている(大嘘)ので、喫茶店に向かった。京都の喫茶店の非日常レベルの高さに驚く。国の登録有形文化財でもある1934年(昭和9年)創業のフランソア喫茶室で、ケーキセットをいただいた。戦前の思想弾圧に打ち勝って残る数少ない「ガチモン」の喫茶店。「ガチモン」というのは最近流行りの、演出によるレトロではなく、創業が古すぎて仕方なく「レトロ」になってしまっている空間のことだ。50ページくらい「旅の効用(前述)」を読み進めた。やはり京都は、なんてことない日常の1カットを非日常的に仕立て上げてしまう空間が多いと感じる。例えば、同じことを都内のスタバでやるとしよう、どうだろうか。いつの間にか、PCを忙しそうに開くビジネスパーソンと写真に忙しい若者で溢れかえっている。「サードプレイス」を掲げているスターバックスも、ただの日常でしかないのである。

京都は地下鉄もあるが、バス移動なのが良い。都内は基本的に地下鉄かJRだ。バスは、移動の行程までも意味を感じる。電車だと、移り行く景色が早すぎて何かに察知する暇がない。地下鉄では遮断される。極端にいうと、5億円ボタンみたいなもんだ。移動中のことは無かったことになる。ところがバスだと、スピードも遅く信号にも頻繁に止まる。その度に、歩道を歩く人たちや景色に目を配ることができて、移動中も有意義なものになる。

サウナの梅湯」という銭湯に行った。入館まで15分待ちの大人気銭湯だった。銭湯人気に拍車がかかっていることはもちろん知っていたが、銭湯って、とりあえず浴室に入れちまえば全部解決すんじゃねーの?と思っていたので、少し驚いた。最近、銭湯の復興ムードは本当にすごい。若い人たちがたくさん頑張っている。銭湯で弾き語りライブを企画したり、デイタイムのDJイベントを企画したりして盛り上げている。フリマなんかも開催している。この梅湯もそうだった。スタッフが作ったZINEも売っていたし、大浴場の壁には、スタッフの手書きコラムが貼ってあって、他人の股間を眺めるより先にそっちに目が行った。カルチャー感じましたわ。感じたのはカルチャーだけじゃない、インバウンドも感じた。

慣れない感じで大浴場に入場してきたのは、白人の大男だった。わかるよ〜。と思う。日本に来たら銭湯行きたいよね〜と。でも、日本独特のマナーや操作が難しい古いタイプのシャワーなど様々な「カルチャーの壁」がある。私は英語が満足にできないので10メートルくらい離れた位置で見守っていたのだが、戸惑うインバウンドの観光客に優しく入り方やマナーなどを教える男性が現れた時には歓喜した。その後、白人男性は電気風呂に入ってえらく興奮していた。その気持ちもわかる。いろんな国の人が裸になって交わる(概念的にな)場所ってあんまりないし、京都の銭湯ならではじゃないかなと思った。外人の裸を見る機会って意外とないし、服着てる時よりも裸の方がコミュニケーションが取りやすい感覚はきっと、国境を越える。

他にも、本屋(誠光社恵文社、蔦屋書店)や映画館(出町座でアステロイドシティを観た)などいろんなところへ足を運んだ。が、どの施設にも通じる、「本当に好きなんだな」というパッションを感じることができた。都内の書店のような、ある程度均一化された品揃えではなく、店側・施設側の意図的な品揃えや売り方、映画のラインナップがそこにはあった。同じような本屋や映画館は都内にもちろんあるのだけれど、「行こう」と思って行かないと行けない場所が多い気がする。距離的にも心理的にも。けど京都って、コンパクトな街だから、距離的ハードルが低い。つまり、生活のすぐそばに、こういう素敵な店があるイメージ。心理的ハードルも解消されている気がする。これは完全に偏見なのかもしれないが、東京ってカルチャーに厳しい印象があるから、自分レベルの人間が行って良い店じゃないんじゃないか、みたいな心理的なハードルがある。(要はオタク以外の侵入を許さない風潮というか、わかりやすいところで言うと「花束みたいな恋をした」のカルチャー大好き大学生、みたいな人がうじゃうじゃいるイメージ。)一方、京都は、観光客の街特有のオープンな雰囲気がどこか通底している。前述の銭湯の話にも似ているが、初心者に優しいんだよな。それはどこに行っても感じた。老舗の町中華「龍鳳」でも立ち食い蕎麦屋「suba」でも。常連も一元さんも構わんよ、みんないらっしゃい!的なあったか〜い雰囲気があるんだよ。

そんな雰囲気にやられて、俺もいろんな優しいことをした。新たな一面を引き出してくれるのも「サードプレイス」の立派な役割なのではないか。11月の京都旅行で、俺が施した一番の「優しいこと」を発表します。デデデデデ…デン!テーブルが横に傾いていることに気づいていないカップルに、「そこだとテーブルが傾いているので、結構お蕎麦食べるの難しいかもです…」と伝えて、カップルの夜ご飯が台無しになるリスクを回避させたことです。

終わりよければ全て良し、と言うことで、この辺で締めようと思います。とにかく、ここまで書いてきたように、京都で送る数日間の「日常」は、さまざまなポジティブな気づきや変化を与えてくれる。まだまだ知らない場所や言語化に至らない感想も多い京都、これからも通い続けたいサードプレイスです。


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