My history ①
前回の「始動!」で、現在に至るまでのルーツをお伝えしたいと書きました。僕が運営しているオンラインサロンではHimarayaという音声メディアで細かく配信しているのですが、ここでは社会人になってフィットネス業界で仕事をするようになるまでは、数回に分けてお話したいと思います。
そして、今抱いている想いをより強くしてきた、フィットネス業界での経験については、少し細かく分解してお伝えしていきます。
カッコつけずに自己開示をしていきますので、お付き合いいただけると嬉しいです。
青野 達彦 1974年12月7日生
出身地 千葉県
血液型 O型
幼少期 (0~5歳)
1歳の時に両親離婚が離婚し、母親と祖母と僕の3人という、家の中に僕以外は男の人がいない家庭で育ちました。
幼稚園の頃は、近所の男の子と公園で遊ぶと、乗っているブランコを奪われたり、砂場で砂をかけられたりして、いじめられる度に泣きながら家に帰っていました。
そんな僕に、祖母は
「そんなことされて黙って帰ってきちゃダメ!もう一回行ってやり返してきな!」
というような男前な人でした。僕はいつも
「僕が本気を出したら僕が勝っちゃって可哀想だからやりかえさない」
といって呆れられていました。
大物なのか、ただの負け惜しみなのかかわかりませんが。笑
何かされても、やり返す子ではなかったので、よくからかわれていました。
そんな性格だったので、周りには男の子より女の子の方がよく集まってきていて、女の子と遊ぶ時間の方が多かったような気がします。
温厚で穏やかな感じで乱暴なことは一切しなかったから、女子も安心だったのではないかと思います。
この頃は、見た目も女の子と見間違われることもありました。
母と一緒に銀行に行った時に、案内係の人が小さい子供に飴とかガムとか、ちょっとしたお菓子を配ったりしていたのですが、僕は髪留めをもらいました。笑
運動能力についての自覚はまだありませんでしたが、足が速いということは気づいていたと思います。かけっこや鬼ごっこは、圧倒的に強かったですね。(でも気が弱いから、からかわれるとすぐに泣いてしまう)
自転車に乗れるようになったのが4歳の時だったのですが、毎朝早起きして練習をしていました。初めて乗れた時の嬉しさは鮮明に覚えています。
足が速かったこと以外は、コツコツ努力してできるようにするタイプだったと思います。
あのまま、なんでもコツコツやるタイプだったら、今頃もっと何かで凄い人になれていたかもしれません。笑
ピアノをやり始めたのも、5歳からなので、ちょうどこの頃です。
親に勧められたというより、自分でやりたいと言ったみたいですね。
運動と音楽に感覚的に触れ始めていた幼少期です。
小学校時代
前半の低学年時代は、体が弱くてすぐに発熱してしまう子供でした。
入学してすぐに原因不明の高熱を出して10日間ほど入院します。
40度以上の高熱が1週間以上続いて、その間毎日点滴を数時間打たれていました。結局原因はわからずじまいだったのですが、今思うと、おそらく色々なことに感度が高くてすごく繊細だったから、急な環境の変化に対応できずに、心と体がすぐにまいってしまったのだと思います。
そんな小学校時代の始まりだったのですが、学年が上がるにつれて、
勉強もスポーツも頭角をあらわしはじめます。
学力は3年生から5年生くらいが人生のピークでした。笑
それと僕は色々なところで「意外と字が上手いね」と評価していただくことがありますが、書道をやり始めたのもこの頃で、五段をとるまで続けたというのが大きいですね。
字に関しては、今も評価していただくことがありますが、硬筆は特別に上手というわけではないと思うのですが、きっと意外性が強いのでしょう。
いったいどんな字を書く奴だと思われていたんだろうと、その都度思います。笑
運動も、運動会やドッジボール大会で活躍することで自信をつけていきました。
4年生からは部活動に入れたので、迷わずサッカー部に入りました。
僕らが3年生の時に「キャプテン翼」がテレビアニメとしてスタートして、
クラス中の男子が観ていました。放送の次の日はずっとキャプテン翼の話をしていましたね。そんな影響から、僕を含めたクラスの男子の半分近くの子がサッカー部に入りました。笑
しかし、週末やっていた少年野球で、僕はデッドボールを受けて手の小指を骨折してしまいました。暫くは腕を振ったりすることもできず、安静にしていなければならなかったので、手を使わないサッカーの練習も休まなければなりませんでした。
そんな時に、1学年上のある先輩に、
「小指が折れたぐらいで部活休んでんじゃねーよ」
と言われ、めちゃくちゃムカついたのを覚えています。
もうこの頃は体力もついてきて、心身ともに少し逞しくなってきていたので、傷つくというよりムカつく気持ちが圧倒的に強くなっていました。笑
あんな先輩と一緒に練習したくないと思って、5年生からは陸上部に入ります。
思い返せば、この頃から理不尽な「上」には従属しないというマインドが醸成されはじめていたようです。。
その5年生では陸上部だったのですが、合唱部がNHKの合唱コンクールに出場することになり、課題曲のピアノ伴奏をしてくれないかと、音楽の先生からオファーがあり、そのコンクールの3ヶ月くらい前から、助っ人で音楽部にも所属し、陸上部を掛け持ちするという時期がありました。
音楽部は女子ばっかりで、男子は僕を含めて数名しかいなくて、しかもそんな注目度の高いピアノ伴奏なんて恥ずかしくて嫌だと、一度断ったのですが、陸上部の顧問の男の先生に呼び出され、
「音楽部の協力をしないなら、陸上部も続けさせることはできないぞ」
という、わけのわからない説得をされて、仕方なく音楽部のお手伝いもしました。
後で知ったのですが、どうやらこの陸上部の先生と音楽部の先生は付き合っていたみたいです。大人の都合で利用されたという感覚を初めて味わってモヤモヤしたのを、よく覚えています。
6年生になっても陸上部は続けて、キャプテンになりました。
そんな感じで、小学校時代の後半は、学級委員をやって、陸上部のキャプテンをやって、ピアノ伴奏をするという、優等生的な状態だったのですが、あらゆることが人並み以上にできたのは、この頃がピークで、中学校に入ってから、一気にアウトローへ転落します。笑
ということで、次回は「中学校時代」を振り返りたいと思います。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。