見出し画像

『まことの説教を求めて 加藤常昭の説教論』(藤原導夫・キリスト新聞社)

これは「説教塾ブックレット」の一冊である。「説教塾紀要」の中から、一般にも提供すべきである部分を取りだして単行本として発行するものである。今回はその「紀要」からというよりも、加藤常昭先生の多くの著作の中から、四冊を以て、その説教論のエッセンスとして説教について学ぶ機会をもっていた著者が、まとまったものをこうしてひとつの形にしたものであるようだ。
 
その説教論を批判検討しようという意図はない。専ら、その偉業を称えつつ、私たちがそこから読み取り、引き受けなければならないことをまとめ、強調したものであると言えよう。だから、これは加藤常昭先生の説教に対する考えを、よりコンパクトに整理したもの、と理解できる小さな本である。150頁もなく、ポイントも大きいので、価格的には安いものではないが、エッセンスが詰まっているという意味では、役立つものであるかもしれない。
 
なんといっても、「説教は神の言葉である」というテーゼを取り上げなければ、始まらないであろう。こうした説教者に対する厳しい姿勢は、そのまま「説教塾」の始まりであり、目指すところでもある。しかも、著者が繰り返すが、加藤先生の説教論自体が、発展途上である。何らかの形で完成して、落ち着いているわけではない。いまなお自身求め続けており、歩む途上にあるわけだから、これで決定版、というような考え方が定まっているのでもない。
 
ドイツの説教から大きな影響を受けた。ドイツに留学し、幾人もの優れた神学者に師事し、交わっている。日本にお呼びもしたし、家族ぐるみでのお付き合いもあった。ドイツで学んだであろう説教の分析・批判の手法が、そのまま説教塾でも活かされているはずだ。だが、それだけで満足してしまうものではない。アメリカでは、クラドックを初めとして、帰納的説教という考え方が進められていた。演繹の対立概念として、近代哲学の基本の考え方に則っているものだが、聖書の言葉からすべてを決めるということの危険性を免れる働きがあるだろう。人間は、かくも思い込みによって、自分を神としてゆく誘惑に操られてしまうものである。
 
そうやって、加藤常昭の説教論は、その都度の歩みを続けてゆく。本書は、東日本大震災の頃までのレポートのようになっている。私が手に取ったのは、その後10年以上を経てのことであるし、加藤常昭先生も天に召されたときのことである。この間にも、きっと進展があったことだろう。だが、ここはここで、大いに踏まえておきたい過程である。先生も齢80を数えている。確かに足跡を拝見しようではないか。
 
思えば、私は先生の本を、けっこう読んでいる。最初に出会って、何か惹かれるものがあったからだろう。何を最初に呼んだのかも覚えていない。また、FEBCのラジオ放送での番組からも受けたものが多い。
 
特に影響を受けたのは、先生の著作の中に登場する本たちである。とにかくたくさんの優れた本をご存じである。話の端々に、誰それの何々という本が出てくる。その紹介に演技があるとは思えない。実にさりげなく、あたりまえのように触れるだけだ。自分の語ることが、自分の中からのものではなく、他人の本に基づくものだ、ということを単純に表示するだけのことが多い。だが、私はそれを見て、猛然と読みたくなってしまうのである。その日のうちに即座に注文したことも、幾度あっただろうか。その日は買い控えても、何日も経ってどうしても諦めきれずに、やっぱり買ってしまった、ということも多い。でも、お陰でいろいろな本に出会えた。いろいろな人の考えを知ることができた。そもそも読書には、そのようにして新たな出会いが拡がってゆく効果があるのだが、加藤先生からは、四方八方に果てしなく道が延びてゆくのだ。
 
それというのも、私と同じ哲学、それもカントを学んだから、という理由があるのかもしれない。音楽を本格的に学び、文学にも造詣が深い。私と共通する関心が深い。もちろん、私などはその足元にも及ばないのだが、「パースペクティヴ」が似ていたのは事実である。そこに現れる本が、私にも実に馴染むのである。
 
本書から離れてしまった。ここには、ひとつだけ、加藤常昭先生の説教が取り上げられている。「説教分析」と言って、ドイツから学んだ手法なのだが、説教塾の仲間で、ひとつの説教を徹底的に分析し、また批判する。批判というのは、非難ではない。だが、思い切った議論をそこでなすことになる。ここではどうか。残念ながら、批判的な視野は感じられなかった。むしろ、説教の背景にあるものや、その意図などを解説するに留まっていた。だが、加藤先生の説教そのものに対するこのような分析は確かに珍しい。優れた説教については、時折このようなことがなされて然るべきであろう。説教塾の主軸、平野克己先生がかつて、雑誌『Ministry』で、世界で知られる説教について、似たような形で解説を加えていたのを思い起こす。「分かる人には分かる」というだけでなく、それを、鈍い私のような者にも分かるようにさせるような解説、それはあってもよいと思うのだ。
 
説教には、説教者の個人を出すべきではない、という人がいる。他方、自身の信仰を語るべきだ、という人もいる。しかし、どちらか一方に偏る必要はないのではないか、と私は思う。自分の信仰を良しとして押しつけるようなものは、言うまでもなく避けるべきである。だが、何もかも他人の定めた教義を並べるだけで、聖書を語ったような気になってもらうのも困る。結局、説教者の信仰が捉えたものが滲み出てくるような形で、聖書が語られるのがよいのではないか、と考えている。この辺りも、本書では少し揺れて紹介されていたように思う。どちらかに極端に走るのではない、ということだ。その辺り、本書の著者は、明確に意識していなかったのかもしれないし、敢えて語らなかったのかもしれないが、私がいま挙げたような思いというものが、もしかすると加藤先生にも隠れていたのだろうか、と感じる。深い体験と救いの革新があれば、それは、どう聖書を説こうと、滲み出てくるものなのである。派手に宣伝しなくても、訥々と語るその言葉の中に、真実は零れてくる。神の言葉は、そのようにして、いまここに伝えられる。そしてそれが、聴く者を通して、出来事となる。
 
まことの説教を求める旅は、キリスト者にとり、ここからもまだずっと続いてゆくのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?