哲学することが必要だ
「批判」という言葉は、「非難」と区別されないままに受け取られる場合がある。日本語の使い方からすれば、仕方がない面もあるから、このような話を始めると、鼻につく言い方に聞こえるかもしれない。だが、「批判」の精神はご一緒に考える価値があると考える。「批判」という言葉は、少なくとも西欧語の訳語としては、悪口とは全く異なる世界を指している。もっと積極的で創造的な意味をもつ概念である。
本当にそれでよいのか、立ち止まってよく考え、検討してみよう。このような態度が、「批判」という言葉の中心に位置している。他者をこき下ろし、叩きのめすようなこととはまるで違う。
しかしこの辺り、世間を眺めると、かなり怪しいケースが目につく。流行語としての「論破」など、その最たるものである。
そのような愚かなことをしている当人のことは、当人が報いを受けるであろうから、さほど問題にはしないでおく。だが、そういうことがカッコいいと勘違いする者が増殖されていく社会は、大いに懸念する。さらに具合の悪いことに、そういうのが「哲学」であると勘違いして、「哲学」と名のつく本が安売りされていることだ(この場合の「安い」というのは価格のことではない。念のため)。
哲学は、自分の主張を通すために理屈をこねるようなこととは正反対のことである。2400年以上昔の、悪しき「ソフィスト」さえ知らないのだから、2400年時代遅れである。「哲学とは何か」と、自身を問うところにこそ、哲学の本性がある、などと言っても、そうした人々には通じないかもしれないけれども。
「哲学史研究」のようなものであれば、ある程度真偽が判明する場合がある。だが、「哲学」そのものについては、真偽が判定されるものではない。むしろ、「哲学する」というようなアグレッシブな行為であることが望ましい。
それは、結論を急ぐことではない。絶えず、それはどういうことか、と問い続けることにも等しい。万事、ある一定の何かでよい、というわけにはゆかないものだ。それでも、哲学者は過去、一定の何かを訴え続けた。訴えては、次の誰かがそれに抵抗した。あるいは、乗り超えた。だから、すべての「哲学者」が常に「哲学する」ことをしていたわけではない。また、一定の何かを打ち出すことは、社会の要請であった、とも言える。
真理を見出したい、という理想が、ないわけではない。むしろ最初は、そう意気込む若さの故に、哲学という領域に入った、という人が多いかもしれない。それでいて、どこからか、自分の生活のためという意味も加わって、誰かの求めに応じて思索を展開するようにもなり得るのだ。
どうあっても、何らかの業績は必要で。熱く燃える大志だけで、画餅を世に呈することはできない。ひとつの筋道を明らかにする。ほんの些細なことだけを、一本の糸でつなぐ。論文とか仕事とかいうものは、それをやることで手一杯である。それが、大きな吊り橋の一本の釘にでもなれれば、まだ報われようが、どうにもならないゴミとなって消えることのほうが多いかもしれない。そもそも見向きもされない、道具箱の隅の錆びた釘でしかないことだろう。
哲学で、人を救うことができますか?
訳あって無理矢理連れていかれた創価学会の人の集まりの中で、私にそう告げた少し年上の男性の言葉は、どうかするとこうして思い出される。
だが、「救う」ということについては、私はその後、自分が救われることによって、フィールドを見せてもらったことになる。そして、哲学でそれをしようなどとは、考えられなくなった。
しかし、哲学がないこの国の教育の中で、哲学することに気づいてもらう意味は、限りなく大きい。それは、聖書がいう「だましごとの哲学」などとは全く違う。これは、「人間の言い伝え」あるいは「霊力に基づく」と言っている故に、私がここで言う「哲学」とは似ても似つかぬものである。
「聖書読み」である人が、哲学を知らないばかりに、この訳語からの思い込みで、哲学を蔑視するようなことが現実にあるのは、残念である。プラトンが敵視したソフィストは、聖書では、イエスが敵視したファリサイ派などに相当する。いつの間にか、ファリサイ派の一員となってゆくような事実を見かけることがあるのは、一層残念である。事実、誠実な説教者は気づいて随所で語っている。ファリサイ派とは、教会の牧師や役員たちのことを思い浮かべるとイメージできるだろう、などと。