『わが主よ、わが神よ』(竹森満佐一・ヨルダン社)
発行年は、実は2冊の分冊版の発行時である。手許にあるものは、1977年に一巻本となったものである。450頁を超える厚みのあるものになったが、これは1冊になってよかったのではないか、と私は思う。かつてはかなり高価な感覚があったのかもしれない。
発行から半世紀を経てようやくお会いできた。伝説の本である。2016年に新装復刊しているが、私は旧いほうで入手した。説教に生涯を賭けた加藤常昭氏が「日本説教史の宝」と称したもので、私もその加藤常昭氏の本で本書のことを知った。
撃ち抜かれる、というのはこういうことを言うのかもしれない。この説教の、質の違いは何なのだ、と思う。
サブタイトルに「イエス伝講解説教集」とある。イエスの誕生から十字架、そして復活までをひととおり辿る形になる。福音書を当然辿るが、旧約聖書も添えてある。この形式は、加藤常昭氏やその流れを汲む説教者が多く採用している。重箱の隅のような私も、真似している。竹森満佐一氏は、福音書と共に、多くの場合にイザヤ書を参照している。イザヤ書はメシア預言の筆頭だから当然であろう。新約聖書への引用からしても、イザヤ書と詩編は頭抜けている。
説教は26載せられているが、どれも分量からすればほぼ同じである。推測に過ぎないが、標準的にこれを語るのに40分以上かかったのではないかと思われる。これらの説教は、「テープ」に録られたものを起こしたものであるが、話したそのままを活字にしているのではない。当然、本書に印刷されたものは「読む」ための説教である。語りのときと全く同一のものを文字にすると、奇妙なことになるだろう。だから、語ったものはもっと時間を要したのではないか、と思う。
文体の特徴としては、やたら読点が多いことが目立つ。語ったときに区切った可能性もあるが、これは異例の多さである。しかし、書き言葉としての価値を落としてでもそうした理由は、感じることができる。それは、一つひとつの言葉を、するりと流したくないのである。読点で一度気持ちを「溜めて」、読点の次の言葉を噛みしめるべきだからである。私はそのように受け取った。
これらの説教が、聖書の解説をするのが目的ではないことがよく伝わってくる。開かれた聖書の言葉を読み解くにしても、それはイエスを私たちが知るために、熱く語られた説き明かしである。幾度も幾度も、同じことを繰り返したり、同じところをぐるぐる回ったりしている。だから、聴く者が、主旨を誤解することはない。それなりに長い説教ではあるが、そこから何を聴けばよいか、という点について、間違うことはないと思われる。そして、それでよいと私は思う。言うなれば、ひとつの説教からは、ひとつのことが伝わればよいのである。ひとつのことが、聴き手に残ればよいのである。それはその人を生かすだめう。命をもたらすことだろう。場合に寄っては、人生にとり決定的なターニングポイントにもなるだろう。それはたったひとつのことで十分である。
それは、説教者が自分の信念だけをぶつけたものだろうか。決してそうではない。丁寧に読み味わうならば、そこに、聖書研究や神学論がきちんと踏まえられていることがよく分かる。半世紀以上前に語られたものであるし、その場にいた人々は、決して神学を学んだ人たちではないはずである。だから、上っ面のことを流して、神さまは愛です、とだけ語っていればよいと考えるような説教者もいたかもしれない。しかし、ここは違う。随所で、最近の聖書神学を弁えた上で、なおかつ人を生かす言葉へと昇華されていくものへと変えられているのである。
これは、言葉の魔法のようであると私は感じた。しかし、魔力によるのではない。それは、どんな神学であれ、聖書と対峙したときの人間が、聖書の中の神に出会い、神に触れられ、神に変えられた経験があるときに、ある意味で自然にできることに違いないと思う。逆に言えば、神に出会ったことがなければ、どんなに「お勉強」をして、神学用語や原語を駆使して語ったとしても、そこに命はない、ということになる。その反対に、実際に神に会った人、神の言葉が現実になったのだということを証言することのできる人は、何を語ろうと、命をもたらすことができるのである。
もちろん、その語り方には、才覚が必要である。信仰的に言えば、神の「賜物」が必要である。竹森満佐一氏は、その器としてこうして実りをもたらしたということになる。
漠然とした印象のようにいまお話ししていることを、どうかお許し戴きたい。具体例を挙げればきりがないのである。また、私如きのような者によってへたに紹介するよりは、直に竹森満佐一氏を通じてもたらされる神からの言葉を、体験して戴きたいのである。そして、あなたがそれにより生かされ、変えられるように、と願わざるを得ないのである。
さて、本書の説教については、最近のものにはあまり見られない特徴がある。それは、「説教題」が付いていないことである。私はあるとき、教会の説教者に、説教題を礼拝のプログラムの中で告知しないのは何故か、と尋ねたことがある。週報に印刷はされているし、ウェブサイトに予告もされている。だが、その説教題を、礼拝の中では全く挙げない。すると、答えを受けた。むしろないのが普通である、と。また、「題」を掲げるということで、それに縛られてほしくない、との気持ちもあるようであった。確かに、藝術作品に「題」を設ける習慣は、西洋でも近代のものであるらしい。それにより、この作品をこのように解釈せよ、という圧力のようなものが及んでいる、という見方が可能である。そうすると、礼拝説教にしても、説教者が、これをこのように聴け、という命令のようなものを、本来下すべきではないのかもしれない。
本書の「あとがき」で、このことについて竹森満佐一氏が弁じている。カルヴァンのやり方であるとし、氏自身が長年それでやっているのだという。実は本書には「まえがき」がないので、私はまず最初に「あとがき」を読んだ。そしてこの件を見て、以前の私のあの質問は、愚問であったのだ、ということを思い知らされた。私もまた、いつしか説教者の意図を伝えるための「題」に囚われていたのだ。そうではなく、神は自由に言葉を語る者に与え、聴く者に覚らせる。そうして、説教者が意図していようがいまいが、そこに神の言葉が実現する場を備えるのである。それこそが、神の言葉が出来事となる、というひとつの現場であり、それを私たちが証言してゆくことになるべきなのである。
気づかされることが多々ある、というのはもちろんのこと、様々な形で、まざまざと神の業を見せてもらえる。そんな説教に、書かれた文字という形でありながら、こうして出会えたことに感謝したい。そうして、私たちは週ごとに、そのような命を受けるために、礼拝に出席する。それが神を礼拝することでもあり、神にレスポンスすることでもある。神の言葉に生きることに、なるのである。