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星が輝いている

クリスマスの説教として、東方の博士たちを扱うものは、定番である。牧師の中には、また同じことを話そうとしていないか、以前のものをチェックするという人もいる。チェックすらせず、同じでもいいさと考えている人もいるだろう。
 
結局、自分が新しい体験をしているかどうか、そこに尽きるだろう。自分が、このクリスマスがなければ自分が成り立たないほどに、クリスマスの恵みを受けていること、つまりイエス・キリストとの出会いを経験していること、それさえ確かならば、何をどう語ろうと、そこには命がある。極端に言うと、同じことを語っていようと、今年聴くメッセージは、これまでのものとは違うものとなっているのだ。
 
説教者は、ひたすら繰り返した。「星が輝いている」と、幾度も幾度も告げた。空に星が輝いている、というのではない。「私たちの上に、星が輝いている」のである。
 
あの、博士たちを導いた星の輝きは、博士たちを激しい喜びに満たした。この言葉は、実に大きな喜びを表すときに使う言葉のはずである。飛び上がって喜ぶ、その喜びであるが、博士たちは、イエス・キリストに出会えることを、この上なく喜んだのである。
 
この博士たちは、異邦人だった。つまり、イエス・キリストの誕生のために神が呼び寄せたのは、ユダヤ人ではなく、異邦人だったのだ。羊飼いにしても、律法に詳しく「正しい」生活をしていた学者ではないところの人々を、そこに呼んだのだった。
 
博士たちは、旅をしてきた。ユダヤに来るときと、帰るときとでは、意味が変わった。ヘロデ王に関してでの表現ではあるが、「別の道を通って帰った」というその帰路は、イエス・キリストと出会ってからの、新しい人生を象徴するものとなり得た。
 
こうした出来事は、過去の歴史の中に埋もれているものではない。それが説教者の伝えたいことの底流にあったと思う。「いまも私たちの上に星が輝いている」ことを繰り返し告げた。
 
だがいまの世も、変わらず暗い。闇の力が世を襲っていることを否定することはできない。だが、希望は失われない。あのとき博士たちは、星を一旦見失った。しかし、実は星は消えてはいなかった。私たちの上に、実はあるのだ。クリスマスを私たちが思う度に、それは消えることなく、きっとそこにあるのである。
 
博士のように、私たちも旅立った。イエス・キリストを知らない異邦の状態であった私たちが、キリストの光に導かれ、キリストと出会い、いまや別の道を通って歩み始めている。
 
クリスマスの出来事を分析し、文献の信用度を量り、あるいはまた社会現象に比較して教訓を得るようなことも、このクリスマスの礼拝で語られることがある。どこまでもイエス・キリストとの関わりから遠ざかる、観察者としての視点でしかない。ということは、そこには命がない。命の言葉ではない。
 
だが、「いまも私たちの上に星が輝いている」という訴えが繰り返される説教は、もし別の年にそのようなことを語っていたとしても、そこに命がある。好きな人のコンサートへ通うなら、同じ曲を聴いても、その都度感動するだろうし、その都度励まされることにもなるだろう。同じ話が悪いのではない。同じ聖書箇所からはもうネタが尽きるというようなものではない。語る者が命に生かされているならば、その語りの中から、自ずと命が流れてくるはずなのだ。
 
さあ、見上げよう。そこに星が輝いているのだ。そこに光があるのだ。主は生きておられる、という声が響いてくるだろう。主が共にいる、という確かな真実が、押し寄せてくるだろう。さあ、うつむかないで、天を見上げようではないか。

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