『福音主義教会形成の課題』(加藤常昭・新教出版社)
シリーズ名が「今日のキリスト教双書」であり、その第15弾となっている。私が手に取った時点で、発行から半世紀。それで「今日」と言われても、複雑な心境である。発行から50年して、加藤先生も天へ旅立った。しかしすでにこの時点で、牧師としても神学者としても活躍しており、力ある説を告げている。その意味では、「今日」という言葉に偽りがあるようには思えない。私たちは、もっとよくない情況にある、とも言えるからだ。
本書の原稿ソースは様々である。論文的に単独で書かれたもの、雑誌にその都度掲載されたもの、そして最後には教会の、恐らく研修会のような形でたっぷりと語られた講演原稿である。半世紀後の加藤氏を知る者としても、決して違和感のない、しかしまだいくらかためらいのあるような口調も新鮮で心地よい。
まずは「実践神学のパースペクティブ」といった、すでにドイツ留学を一度経験した後に得られた視点に始まり、「現代伝道論への教会論的観点からの若干の提言」「説教作成過程に関するひとつの方法論的考察」などに始まる。「聖書的説教」についての論述もあるが、ユニークなのは「禁欲論」ということが真っ向から論じられている点であろうか。案外こうした問題は、巧妙に避けられているからである。
中盤は、『福音と世界』の原稿が多いが、キリスト教界へ向けての提言内容は、多岐にわたる。信仰そのものにも言及するが、「聖潔」あるいは「聖化」ということが正面から論じられるのは、私にとっては心地よい。こういうことが、いま消えかかっているようにすら思えるからだ。ここでも再び「禁欲」というテーマがあるのは、何か時代的な要請があったのだろうか。しかしまさに「今日のキリスト教」のために、これは持ち出さねばならない話題ではないか、とも思われるのは、私の郷愁めいた思いに基づくものなのであろうか。
もちろん、加藤氏とくれば「説教」は正面切って問うべき内容である。が、この後に専ら「説教」ばかりを熱く語るようになることを知っている立場から見ると、まだそれほどに「説教」が際立っていないのかもしれない。その意味で、控えめに語られている説教論は、味わいがある。滾るような情熱が、そこにあることに、自らまだ気づいていない面があるような様子が感じられるのである。
ただ、後世「説教論」が主軸となる加藤氏において、実は隠れた契機となっているのが、「教会」というものであるように、私は感じている。教会の外に救いなし、という言葉が飛び交うこともあるが、これが強く底辺に構えられているのである。もちろん、個人の信仰でよし、とまでは私も言うつもりはない。だが、教会がなければ本当に救いがないのか、というと、私はそこまでは強く言えないように思うのだ。過酷な環境や置かれた情況において、私たちがイメージする「教会」というあり方がとれない人も、世界にはいるからだ。
これは、加藤氏が、牧師として、終始教会をいわば司る立場にある影響もあるのではないか、と私はぼんやりと感じている。もちろん、牧師がワンマンであることについての問題があることは、本書からも窺える。それは加藤氏が学んだ先の時代において、よくあることだったし、問題とされることがあったからでもある。長老制からして、新たな教会の運営方法として、抑制の利いた方法であったと言えるかもしれない。
牧師として、教会をどう成立させ、維持するのか、それは大きな問題である。そこにこそ、信仰生活の核心がある。だが、果たして「聖餐式」の問題が絶対であるのかどうか、だ議論の余地はあるであろう。それでもなお、それを軽く見るようなことは、明らかに伝統に刃向かうものとなりかねない。それは、キリスト教信仰の根柢を揺るがすものともなりうるのである。かつての先人たちは、サクラメントのために、命を懸けることもあったし、そのために酷い争いも起こってきた。そもそもキリスト教とは何だったのか、ということさえ、私たちはもっと考えなければならないようにもなってきた。
それに、教会があるからこそ、「赦し」というものについて知るのだ、という点は、確かに説得力がある。このように「教会」は様々に受け止められるが、私の見解は、この「教会」という語の定義による、というものである。つまり、建物でないことはもちろんだが、加藤氏のように「共同体」としての教会であるというところに、考える意義があるのであり、考えなければならない課題がある、と思うのだ。それは、新約聖書でもそうである。組織としての教会の意義も、いまならあるにはあるのだが、結局のところ、教会は「人」であり、「人の交わり」にもなっている。神との関係が結ばれた人たちが結びついている、というところにこそ「教会」を見るのでなければ、すべての議論が混乱の中に陥ってしまうのだ。「教会」の定義については、本書で断片的に触れられていたかもしれないけれども、もっと常に根柢に置かれなければならないのではないか、と強く思う。一人ひとりの思い込みに基づく議論は、不毛な時間をつくるだろうと思われるからだ。
第三部にある、講演は一つひとつが長く、聞き甲斐がある。それは「日本における説教の問題」、「慰めの共同体」、そして「教会とは何か」の3本である。ここには、説教を軸として、さらに「教会共同体」の成立や維持について、そして、鎌倉雪の下教会という現場を根拠としての言明が、かなり細かく語られてゆく。たっぷりと時間をとって語られた、味わい深い講演となっている。ただ、最後のものは、時間の関係だと言いながら、最後に教会と社会の問題には触れられずに、また別の機会に、と結んであった。それが本書の最後であっただけに、ややすっきりしない終わり方をしてしまった、と感じるのは私だけだろうか。否、本書が関わるのは社会問題ではなく、教会形成のことなのだから、これはこれでよいのだ、と理解しておくのが適切であるかもしれない。
この最後のところでは、「プロテスタント教会というのは、自分を改めることを自分たちの伝統と理解してきた」と説き、「自分を改めることができなくなった教会は、プロテスタント教会でなくなるのです」と言い切っているところは、その後半世紀経ったいまでも、常に響かせておかねばならない叫びであるような気がしてならない。