命の水の川
ヨハネの黙示録を辿る連続講解説教も、ついに最後の章に辿り着いた。まだもう少し大切なことは待っているが、幻の世界は、とりあえず動きを止めている。大団円はすでに始まっており、血生臭い戦いはすでに終わりを告げている。
夏休みは辛いことがある。今年はまだよいほうだったが、日曜日の出勤が強いられることがあるのだ。18日は、その一日であったため、この感動的な説教を、ライブで聴くことはできなかった。ただ、ありがたいもので、録画という形で巡り会うことはできる。昔だったら通り過ぎてしまうだけだったのが、この技術にはまことに感謝するばかりである。
尤も、説教はその場その時に触れてこそ、という考え方もある。本当のところ、その通りであるだろう。文章化した説教を読むというのは、明らかに声のない、別物だという人が多いかもしれないが、録画については、比較的寛容である場合が少なくない。その場その時、という原則であってよい、と私は思うが、なにはともあれ、その言葉とその声に、曲がりなりにも接することができる、というのはありがたい。
さて、黙示録は最終章の22章を、初めの5節分だけが今回取り上げられた。天使がヨハネに、「命の水の川」を見せてくれた場面である。「都の大通りの中央」を、その川は流れている。「両岸には命の木」がある。命の木は、「年に十二回実を結び、毎月実を実らせる」。その木の葉は、「諸国の民の病を治す」力をもつ。
黙示録は断言する。「もはや、呪われるものは何一つない」のだと。都には「神と小羊の玉座」がある。そして神の僕たちが、神を礼拝している。私たちもまた、そこに連なるのだ。神の御顔仰ぎ見るとは、なんと幸いなことであろう。この僕たちの「額には、神の名が記されている」という。命の名が刻まれるばかりではない。額に刻印された神の名は、神のものとされたことの証しである。
そこには、もはや夜がない。夜がないから、「ともし火の光も太陽の光も要らない」のである。だが、水面には、キラキラと輝く光が揺れているだろう。そこには永遠の光がある。光は「神である主」ご自身である。僕たちは、この都で「世々限りなく統治する」のである。つまり、ここに「神の国」が実現した、というわけである。
説教者は、説教のための聖書箇所のほかに、申命記30:19-20を掲げた。
30:19 わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、
30:20 あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。
礼拝説教のために選ばれた聖書箇所は、もちろん黙示録である。また、それの傍証のようにして、エゼキエル書も取り上げられた。その47章の最初のところで、黙示録のヨハネが恐らくモチーフとして用いたに違いない、「命の水の川」が描かれている。もちろん、イエス・キリストが登場する天の都を直接名指ししているわけではないにせよ、「この川が流れる所では、すべてのものが生き返る」(47:9)という言い方が精一杯のところなのだろうが、その川の両岸に並ぶ木が、月ごとに実を結ぶことなど、明らかにヨハネはこの描写を参考にしている。
だが、説教者は申命記を、サプライズで登場させた。それは、「命を選ぶ」という言葉のためである。今日のテーマは「命」である。申命記は、しばしばその「命の道」を提示する。それも、「呪い」と「祝福」との岐路を示すことによって、である。だから、あなたは「命を選びなさい」と迫るのである。
これらの祝福、それから永遠の命というものは、恵みによって与えられるものではなかったのだろうか。私たちが自ら求めてはいけないことはもちろんないのだが、私たちが選んで決めるというものではないのではないだろうか。
確かに、選べばそれでよい、ということならば、そうかもしれない。だが、申命記は選んだだけでは終わらない。「主を愛し、御声を聞き、主にしき従いなさい」と命じている。「それが、まさしくあなたの命で」あるからだ。恰も地上の土地に長く生きるかのように書かれているのが、旧約聖書の特徴である。永遠の命、神の国での新しい命、というイメージがどうしても描けなかった段階であるから、それは受け容れよう。だが逆に言えば、こういう形で、旧約の福音は、人間に神の国を伝えていた、というふうに受け取ることもできるだろう。
説教者は釘を刺す。「命を選べ」というのが、人間に対する神の迫りである。だが、人間はなんと、命でないもの、ずばり言うと「死」を選び取っているかのように過ごしているのだろう。争いは絶えない。隣人に対して目を閉じている。踏みにじり当然という仕打ちに染まり、それを正義とさえ呼ぶ。自己正当化と自己義認の塊の精神には、ひとかけらの「愛」もない。
説教の冒頭で、教会の事情が説明された。詳述は避けるが、教会がひとつの岐路に立っている、という認識が語られた。そして、「命を選ぶ」ために、ひとつの選択がなされた。長く務めたその牧会を、さらに続けることの勇気がそこにあった。命の言葉が、さらに力強く語られなければならない。その決意がそこにあった。
キリスト教界は、危機の中にある。そう呼ばれて久しいが、明らかにその度合いは厳しくなっている。それは半世紀前にも盛んに言われていた。太平洋戦争後のブームを楽観視していたというわけではないかもしれないが、あのバブルはあっという間に弾け、極めて人間臭い争いと対立が、キリスト教界を破壊していった。
冷たい言い方だが、組織がどうなろうと、私は構わないと考えている。教会は、組織であることが本体ではない。すでにパウロ以降の手紙では、組織立った教会の運営が盛んに気にされているが、当時からすでに、組織としての教会に危機があったからだ、と私は理解している。「教勢」がどうの、ということが本質ではない、と思うのである。
いくら華やかでにこにこと過ごしているような「教会」であっても、信仰が死んでいるところは、決して少なくはない。「偽預言者」のもとに、「教会」を演じているというところを、現実に知っている。まさに黙示録で七つの教会に宛てられた手紙は、深刻に今なお届けられ続けているのである。
去年もそうだった。この教会でも、地上で会うことができなくなった方々を、共に見送ることが、非常に多くなった。高齢化という社会の現象は、教会の中でも否応なく押し寄せてくる。そして先週も、二人の方の知らせを聞く。ただ、この方々は、「命を選びとった方」だという点について、説教者の信仰は揺るぎない。あの命の水の川へと、一足早く届ける時を、私たちは経験したのである。
私もあるとき不思議に思った。命の水の川のほとりに、しかも両岸に並ぶ、「命の木」についてである。どうして原文では、それが単数であるのか、奇妙だと思ったのだ。その不思議さとその理由については、私には分からない。きっと、誰にも分からない。説教者は、ヨハネがあの創世記をイメージしていたのだろう、という程度の想像をする。エデンの園の命の木は、単数であったわけで、そこに意味を重ねているために、通常の人間の意識に基づく単数形複数形という範疇を超えていても可笑しくない、というのである。
それよりも、そのほとりに私たちがいるかどうか、そこに私たちの信仰の眼差しがかかっている、ということの方が重要である。聖書を文献として、その謎解きをするのが目的ではない。私たちが、そして私が、聖書の言葉をどのように受け止めて、どのように命を選ぶのか、イエスに従うのか、そこにこそ焦点を当てなければならないのである。
その信仰体験のためには、「想像力」が必要である。説教者は、少々ややこしいことと断りながらも、「想像力と信仰」について触れる。信仰に必要な想像力というものがあるのだという。それは、現実を虚構化することによって、現実を覚醒させることなのだそうだ。難しい解説もあるだろうが、私はそこに、「ファンタジー」というものの力を覚えた。
ファンタジーは、明らかに虚構である。だが、その虚構であるファンタジーの中に、人生の真実を私たちは経験することがあるはずである。エンデの『はてしない物語』では「ファンタージェン」と称されていたが、ファンタジーの国が滅びようとしていることが、子どもたちの、そして人類の危機だ、と訴えられていた。
コロナ禍に陥った社会で、一部の人々がすっかりうろたえていた。もちろん生命の危機について警戒することは重要である。だが、コロナ禍で、「文化」や「芸術」が無用だ、という声が、尤もらしく叫ばれたのである。そんなものは人が生きるためには無用であって、活動ができなくなっても構わない、というのである。文化や芸術は世の中に役に立たない、という、いかにも正しいような声が拡がったのである。
経済や法律に詳しい自治体の首長の中には、それ以前から、「文化」を軽視する発言や政策もあった。自分で利益の出せない芸術など、税金泥棒であるから、もう助成はしない。そんな理屈であった。
それだったら、キリスト教会など、芸術以前に、なくなって然るべきものであるはずだ。いったい何の役に立つのか、説明できないではないか。――事実、害にこそなれ、人に命をもたらすことのできないような「教会」については、私も正直そのように思うことがある。だが、毒麦についてはイエスも存在を直ちに否定はしなかった。何かしら意味がある、というのが神の教えるところであるのなら、人が裁く必要はない。
但し、信仰には、何らかの想像力が必要であるのは確かである。聖書の物語の中に、自分が登場する、というレベルのところからでも、思いもよらないという「教会」もあるが、それはもうすでに教会ではない。
説教者の言明とは関係がないかもしれないが、「説教塾ブックレット」に「聖書の想像力と説教」という一冊がある。並木浩一先生のセミナー講演と、その質疑応答などからできている。その「あとがき」で、並木先生は次のように触れている。
私は「ウソ」の意味で「虚構性」を用いてはいません。むしろ虚構性に現実を創出する力を認めております。(p142)
この本での議論は幅広く、また深いものであり、ここで取り上げた程度のレベルには留まらないのだが、信仰が現実を生み出す力とその方向への希望というものを、力強く感じることができるような気がした。
教会から天へ送り出したお二人を偲びながら、説教はクライマックスを迎える。会衆に、この「命の水の川」をのイメージをたっぷりと塗り込むようにして、そのイメージを心にいっぱいに描くことを願って、語り尽くすことのないイメージを叫び続ける。
命の水の川の幻が見えますか。この教会にも、それは流れているのです。いまここに、命の水の川があるのです。それが見えますか。亡くなった方は、死に負けたのではありません。イエス・キリストを愛する者は、すでに死に対して勝利したではありませんか。この川の流れを止めることは、誰にもできません。私たちは、命を選んだのです。これからも、命を選び続けるのです。それは神に従うこと、神に仕えることなのです。そして、人を愛することなのです。
こうした言葉を繰り返しながら、涙混じりの声が、終わりなく会堂に響くのであった。