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『加藤常昭説教全集2 ローマ人への手紙1』(加藤常昭・ヨルダン社)

タイトルか出版社を見て、「おや」とお思いになった方がいたかもしれない。「ローマ人への手紙1」は、教文館発行の全集では第17巻である。2005年に発行されたこちらは、改めてヨルダン社版の作品と、さらに多くを重ねて完成したものであり、ヨルダン社は2003年に破産宣告を受け、翌年手続きを完了している。良い本を多く出版していた。惜しいことをした。
 
私が入手したのは、そのヨルダン社版である。手頃な価格で、美しい本が届いた。
 
加藤常昭先生は、しばしば連続講解説教を試みているが、このローマ人への手紙についてのものは、1984年11月18日より、1988年3月27日まで、111回語られた。この全集においては、語られた順序で配列したというが、途中で記念礼拝で語ったものが偶々ローマ書についてのものだったので、ここに割り入れた模様である。
 
このことは「はしがき」に記されている。
 
講解説教の始まりは、鎌倉雪ノ下教会が新しい教会堂を献堂した日である。その献堂の恵みと喜びを機に、新たな講解説教の扉を開いたというわけである。それも、ローマ書という巨大な砦を相手に、長い旅を始めるのである。どんなに緊張したことであろうか。
 
時に時事問題を絶好のタイミングで絡ませ、時に読んだ本の内容と絶妙にリンクし、縦横無尽に福音を語る。自身の経験に触れることもあれば、偉大な先輩のエピソードを交えることもある。いったい、どうしたらこのようにその都度変化に富んだ、しかも相応しい題材が得られるのか、羨望の眼差しを送らざるを得ない。
 
そう、ドイツでのこともあるし、そこで出会った先生ばかりでなく、一般の人のことにも触れることがある。きっと、生きている一瞬一瞬に、霊的なアンテナが張り巡らされているのだろう。ああ、これは主からのものだ、とばかりに、凡ゆる体験と見聞とを福音として解釈する。説教を書くときには、それらのうちどれとどれが結びついて、またどういう順序で語ればよいか、神に動かされるかのように瞬時に決まってしまうのではないだろうか。
 
しかも、原稿を覚えて見ずに語っていたかもしれないとなると、なおさらである。聖霊に動かされて語る、つまり正に神が人間の言葉を語らせている、と見なさざるを得ないほどである。
 
ひとつの説教の長さは、若干その都度ちらばりはあるものの、おおよそ16頁くらいであろうか。1頁が810字、原稿用紙2枚分である。これが16頁だと原稿用紙32枚。冒頭の聖書箇所の本文に加えて、最後に礼拝での祈りも収録されており、余白と改行などを考慮しても、原稿用紙30枚にはなるだろう。語れば30分を下ることはないと思われる。加藤先生の話し方は、若い自分はまた異なるかもしれないが、決して早口ではないから、40分から60分ほどで話していたのだろうか、と推測する。
 
この原稿の長さは、いま初めて計算してみたのだが、驚いた。私が、説教の真似事として書いているメッセージの一回の標準が、原稿用紙30枚なのである。もちろん私は計算ずくでしているのではなく、いつどのように綴っても、そのくらいを前後するふうにいつも決まってしまうのである。いま、なんだか嬉しくなった。自分の中から零れてくる福音は、加藤先生が必要とした量と同じくらいなのだ。もちろん、それは質的には雲泥の差がある。霊的に、質的に、私の書くものがこれほどの説教に手が届くとは思えない。だが、それだけになおさら、ここから学ぼうという気持ちにさせられるのである。
 
私は偶々加藤先生の語り口調というものを音声で少しだけでも知っているため、声での語りが、実のところ説教の真実というものであることは理解しているつもりである。だが、説教原稿を読むということも、決して全く意味がないものではない。私は就寝前に読む本は、たいてい説教集という形が定着している。多くの牧師や説教者の説教集が出版されている。それらは、一度読んでおしまい、とするにはもったいないものが多い。今後はたくさん本が買えなくなるかと思うので、時折そうしているように、かつて読んだものを再読、あるいは再々読するとよいと考えている。
 
また、説教というもののスタイルは、何も決まったものがあるわけではないから、加藤先生の形がすべての説教者に合っているかどうかは分からないものとしておく。が、説教批判というものを輸入し、説教塾を開いて、日本の福音は説教にかかっている、との熱意を生涯衰えさせることのなかった加藤常昭先生の語りは、確かに命のあるものだった、と私は信じて止まない。
 
中には、聖書の言葉を順に取り上げて、「略解」に記されたような解説を加え、ときに政治の悪口を交えながら、最後に、私たちもこのようにしましょう、で締め括ることを説教だと勘違いしている人もいる。自分の救いの体験がない場合、このような説明しかできないのである。これは学校の教師もそうだろう。教科書を読み上げて、若干の解説を加えるのが授業だと勘違いしている人も、いないわけではないが、牧師説教者においても、同じことが言えるのだ。
 
だが安心されい。本書はそんな失望を与えない。聖書の原語をひけらかすような人も偶にいるが、ここぞという急所で、しかも示唆に富み、ああ、と気づかせるような形でしか、本書では原語を持ち出さない。そして、聴く者の眼を開かせるのだから、この快感は説明するのも難しい。はっとさせらせ、自分がその聖書の物語の中に立ち、すべてが「自分事」として気づかされるような、新しい情景が目の前に拡がるのだ。「ひとを生かす」という福音のベースが、凡ゆる形で現れてくるのだから、頼もしいし、いくら聖書を自分なりに学んでいても、新たな気づきが与えられる体験を、毎日読めば毎日与えられる。全く贅沢な本である。
 
このローマ人への手紙の第一巻は、ローマ書の第1章から第4章までを収めている。第二巻は手に入れているが、それ以降が古書に見当たらない。教文館のものは出回っている。懐具合と相談しながら、思案中である。
 
なお、普通はボールペンやマーカーで傍線を引きまくる私ではあるが、加藤常昭先生の説教集だけは、それができなくて、フィルム附箋を貼っている。殆ど人形の髪の毛のように、カラフルだが沢山のフィルムが、本の「天」の部分に繁っている。

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