『ねこかつ!』(高橋うらら・岩崎書店)
表紙の表にも裏にも「保護ねこ活動」というスタンプのイラストが入っている。「ずっとのおうちが救えるいのち」という副題は、「ねこかつ」というタイトルの意味の説明を呈している。
表紙の子猫たちは、本書の主人公たる三兄弟。一番上の猫は、左目が潰れている。この子の独り語りが、本書の文章の形態である。この子が、保護ねこ活動について説明を現場から届ける、という体裁をなしている。
私も、保護ねこ活動について詳しく知ったのは、数年前である。天神のバス停のところで、犬や猫のもらい手を探すボランティアがいることは、ずいぶん昔から知っていたが、飼えない事情があるにしても、動物が好きな人なのだなという程度の認識しかなかった。しかし、人間の身勝手な言葉「殺処分」ということで、どれだけの犬猫が殺されているか、そこから目を逸らしていてよいとは思えなくなるのは、やはり何らかの形で猫に触れてからではあるだろう。
京都の下宿では、近隣の猫たちと親しくしていた。縁側のところに、通りがかりの猫がくる。餌を置いておくと信用してくれる。入れ替わり何匹かが立ち寄るようになってきた。そのうち、慣れると部屋の中まで入ってきたし、私の布団の上で寝る子もいた。猫の習性についてはそうして実地に学んだ。彼らは、飼い猫だったのだろうか。それにしては、辺りを自由に闊歩していたし、もちろん首輪などはない。野良猫だったとしても、人にはずいぶん馴れていると言える。あの頃は、おおらかだったのかもしれない。
だがいまや、猫は場合によってはかなり嫌われる。嫌う人がいてもそれは仕方がないと思うし、実害があると言われると、我慢しろなどと他人が言えるはずがないことを恥じる次第である。だからと言って、地域猫を蹴り殺すような真似をする必要はないはずだ。弱者への暴力という形で、自分のストレスを解消する奇妙な正義意識があるのだろうか。そしていまは、動物虐待は法律で犯罪として扱われるようになった。
しかし、「殺処分」は虐待にはならない。
本書は、小学生が読めるようにつくられている。最初に写真もあり、ケージに入れられた猫たちが現れる。捕獲された猫たちである。ここで子どもたちに「TNR」を教える。猫に不妊手術を施すのである。人間にに対してこれをしていたことが公になり、裁判にもなっている。猫にならしてもよいのだろうか。自然に任せられず勝手に人間の都合で不妊手術をすることは、虐待にはならないのだろうか。そのような悩みが、保護活動をしている人々にも、ないわけではない。できればそんなことをしなくても済むような世界になればよいのだ。だが、繁殖すると子猫が増える。殺処分のうち過半数は子猫が対象である。生まれたばかりに、人間の邪魔になるため相当な数の猫、しかも大部分は子猫が、「殺処分」される。人間が「殺処分」する。「TNR」の活動は、この子猫の不幸をなくしていることになる。
しかし不妊手術には、何万円かが必要になる。寄付による団体もある。地方公共団体が補助を出しているところもある。しかし寄付に頼ると、活動が不安定になる。本書で登場する団体は、譲渡会をもちろん開くほかに、「保護ねこカフェ」を経営することにした。その名前が「ねこかつ」なのである。
私も、コロナ禍にさしかかる頃のことだったが、福岡の「保護ねこカフェ」に行った。もし気に入れば譲渡へと動いていく、そういう猫カフェである。無知を恥じる気持ちで言うが、猫エイズについて詳しく知ったのは、その時が初めてだった。
本書の主人公の子猫は、最初「ルンバ」と名づけられた。この子の目を通して、保護ねこ活動をする人々が紹介され、実際どのようなことが行われるかを説明していく。活動の中心にある梅田達也さんの生い立ちまで説明し始めると、さすがに子猫視点ではないとは思うが、まるでその話を聞かされたかのようにして、自然と物語が続いている。まさにこのルンバくんが、物語っていくのである。
年間一万匹単位で殺されていく猫たち。それを知って梅田さんは、そのスイッチを押す人の悲しさにまで共感して、自分にできることを懸命にやる。東日本大震災のときには、被災地の動物のために福島に入る。人のいないペットショップで死んだ動物たちを見る。かろうじて生きている動物を見ると、保護する。その動物たちを、カフェという形で養い、また保護者を探すことにしていったというのである。しかし、多頭飼育崩壊が起こっていると、あらぬ中傷を動物保護団体から受けるなど、受難もあった。
主人公たち三匹の兄弟も、飼い主が見つかった。片目の潰れたルンバにも、ついにお声がかかった。こんな子もいるのだ、と受け止めてくれた人がいたのだ。しかし、「ねこかつ」も苦しい中で営んでいる。TNRの費用を地域が協力するというのも大変な話だ。中には、せっかく、可哀想だから、とTNRに協力するような素振りを見せながら、費用がかかると知ると、では保健所に連れて行く、などと言い出す人もいるのだとか。こうした態度は、保護ねこ活動に限らず、私たちも陥りやすい自己顕示である。気をつけたいものである。
多頭飼育崩壊が、時たまニュースに挙がってくる。たくさん飼っている人が捕まルという者である。だが、人が捕まったとしても、そこにいたたくさんの動物たちはどうなるのか。正にそれは「殺処分」対象なのである。だから、「ねこかつ」の運動も、こうした動物たちを受け容れていこうとしなければならなくなることがある。しかし活動そのものが多頭飼育崩壊になってはいけない。問題は山積している。
コロナ禍の中、保護ねこカフェの活動も窮地に立たされる。閉店はせずに、細々と気をつけながら経営を続ける。寄付を募る動きも増している。そういうピンチでの呼びかけに、本書は閉じられていく。
小学生にも、緊張が途切れないほどに最後まで読ませていくのは、筆者の腕の見せどころではあるが、大変だっただろう。だが、よく描けていると思う。ある県では、殺処分される猫がある年にはついに一匹になったのだという、救われるシーンもあった。その一匹は、病気でやむをえなかったのだそうだから、実質無意味に殺されたのは一匹もいなかったのだという。努力すれば、それも可能なのだ。
人間の身勝手と、それでも何かできるという希望を与えてくれる本だった。思わず涙が出たが、問題は涙では解決しない。命というものを軽く扱う社会は、人間の命をも同じように軽く扱うようになるに違いない。もちろん、私たちは食べるという形で多くの動物を殺している。動物に対してどう向き合うかは、生き物としての人間が抱える矛盾でもあるし、義務でもある。簡単に結論を出さないで、まずできるところからすればいい。猫は、互いに信頼関係をもつことができる動物であり、私を癒やしてくれる力をもっている。普遍的な解決を求めることなく、出会った猫と心を通わせていたい。そんな思いで、ささやかな協力をしている昨今である。