霊性と礎
教会の創立記念の礼拝に出会うと、教会の歴史に触れることができるが、それ以上に、教会の信仰というものを感じることになる。そこで歴史を説明し始めるのは、ありがちだが、礼拝説教で語ることがない人ならいざ知らず、このときでこそ語るものが示されている説教者は、やはり違う。
聖書における、イエスから弟子たちへのメッセージが、いまの私たちにどのようにもたらされているか、そこにある教会の礎というものが、聴く者に見えるように語るのが、ありがたい。
小さき花のテレジアが紹介されたのには、心が躍った。説教者は「リジューのテレーズ」という呼び方をしたが、今年で生誕150年、だが当人は24歳で召される。マザー・テレサの名の由来にもなっているとされ、純粋な信仰は、小さな犠牲や忍耐をすべて神に献げることで生命を使い果たし、ただ神への「愛」を思う言葉を遺して天へ旅立った。その死後に起こしたという奇蹟の故に、異例の早さで列聖される。
なぜプロテスタントの立場にいる私が、この人について知るところがあるのか。私の妻の受洗した教団は、カトリックではなかったが、カトリックの聖人思想を有していて、妻は洗礼名として、この小さき花のテレジアの名を受けていたのである。その後出会った私も、どんな人なのか、当然知りたくなるではないか。
説教者は、「霊性」ということを学ぶことがあってもよい、という姿勢で触れた。聖人についても、また先人がささげた祈りについても、プロテスタントは知るところが少ない、との懸念でもあった。イエスの苦難について、他人事のようにしか感じることができないようなことでよいのか――それを自分なりに感じているという信仰でいたつもりであっても、私などは、何かある毎に、いままでちっとも分かっていなかったのだ、と思い知らされることの繰り返しを経験している。
「霊性」に関しては、カトリックでは16世紀のイグナチオ・デ・ロヨラによる「霊操」という考え方がある。英語なら「エクササイズ」にあたるだろうか、それを「体操」の言葉に重ねた訳語である。修行めいたその考えは、「信仰による義」を掲げるプロテスタントからは、端から軽蔑の対象にするような場合がなくもないが、残念である。中には、『イミタチオ・クリスティ(キリストにならいて)』という、聖書の次によく読まれたのではないかとさえ言われる本の存在すら知らない、というケースがあるようだ。
「キリストを愛すること」、こうした「霊性」のエッセンスは、そこにあると思われる。クリスチャンという顔をしておきながら、これのない者が、どんな残酷なことをしてきたか。説教者は憤りを以て語る。彼らは、神の名は口にする。神の名にかけて誓う。そうして、人殺しをも正当化する。だが、キリストの名にかけてもし誓うのであれば、そんなことはできるはずがないではないか。
復活のイエスが、ペトロに三度「愛するか」と尋ねる場面がある。邦訳では「愛する」という語だけなので気づきにくいが、原語では、三度目の「愛する」はそれまでと別の語になっている。古来、そこに意義を見出そうとする解釈が通例であった。近年、どちらも意味は変わらない、という理解をしたほうが先進的に見られるような場合もあるようだ。ただ、前者にしても、聖書解説は概ね決まった説明をすることになっていた。だが説教者は、イエスとペトロの「対話」という中で、イエス自身が新たな展開を見せたというような可能性について最後に語った。これは面白かった。
新たな説だから面白いのか。それもある。だが、このような問いは、自分がその聖書の言葉を真っ向から受けていなければ、出てくるはずがないものなのだ。自分が聖書の言葉と向き合うことなく、コピペするように、通り一遍の説明をして説教ぶるような態度からは、絶対に生まれない展開なのである。説教者は、聖書の言葉を会衆にぶつける前に、まず自分がその言葉を神から浴びている。そして「神よ、なぜ」と問うている。その信仰があるからこそ、神の言葉が生き働いているという場面を経ているからこそ、それを聴く者の魂をハッとさせるような、新たな光を投げかけることができるのである。
それが、一人ひとりの「霊性」を目覚めさせることに違いないし、それが集まったものとしての「教会」の礎となるに違いないのである。
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