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その日が何度でも来る

アモス9:11-15 
 
その日が来る。アモスが回復を預言します。アモスは羊飼いでした。預言者たちのうちでも、古い時期の預言者であったと考えられています。ウジヤ王の在位における震災の直前の預言である、と断り書きがあります。この地震の遺跡が、2021年8月に発掘されています。建物や器などの破壊の様子と、推定時代の探究が、この記事と合致するというのです。
 
相当のダメージがあったであろうことは、震災の現実を知る私たちにも想像しやすいものです。これを神の裁きだと考える人がいたとしても、不思議ではありません。現代でもそんな声が聞かれたのですから。アモスもその一人であったかもしれません。でも、これで世界が終わるというのではありません。必ずや回復するという預言でした。
 
一旦崩壊の憂き目に遭った首都エルサレムも、きっと回復する。その日が来る。「ダビデの倒れた仮庵」は正に地震の被害を物語っています。「破れを修復」する主は、「廃虚を復興」させることになります。「昔の日のように建て直す」のも主です。さらに、農業が立ち直り、町が元のように戻ると言います。
 
主は、人をも「その土地に植え付ける」と言いました。もう引き抜かれることはないから、と。この時代は、まだバビロン捕囚まで間があります。ざっと200年くらい後のこととなりますから、この地震からの復興があっても、さらにひどい崩壊を経験するに至るわけです。一体、主は幾度この都を壊し、債権するというのでしょうか。
 
恐らく、何度でも、です。不幸な目に遭っても、主は立ち上がる力を与えます。私たちは毎週、主日毎にそれを経験しているはずです。神の言葉による立て直しを求めて、私たちは主の前に集います。それだけが目的ではありません。それは神を礼拝する場。でもそこには、神に対して私たちが犠牲を払う時なのだ、という意味はありません。
 
神との間の適切な関係の中に自分があることを確かめ、主の業を体験した者が共に集い、主に感謝して、主に賛美するのです。その日が来る。そう信じて、信じることによってまた主とのつながりが強まり、それを私たちは確かめます。だから、必ず何度も、何度でも、礼拝の中から語られるメッセージにより、「その日」というものが来るのです。

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