荒れ野に一つの花を
マルコ伝の連続講解説教として、前回「洗礼」をテーマにしていたことから、次はいわゆる「荒れ野の誘惑」となる。マタイ伝とルカ伝とでは、ここにかなり詳しい逸話が掲載されている。悪魔が三度イエスを試すが、イエスは旧約聖書の言葉の適切な解釈により、悪魔を退けるという具合である。しかし、原版であるのか、マルコ伝はここは非常にシンプルである。短いので2節とも引用しよう。
それからすぐに、霊はイエスを荒れ野に追いやった。イエスは四十日間荒れ野にいて、サタンの試みを受け、また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。(マルコ1:12-13)
野獣や天使など、突っ込んで考えたい素材がそこにあるものの、今日はそれを些末な問題として特に触れず、より信仰の核心に向けて急ぐことになる。
説教者は、元来聖書本文には、いまの日本聖書協会が採用しているような「標題」などないどころか、章も節もなかったことを想起させる。下手をするとギリシア語の大文字ばかりが並び、しかも語と語の間が空かないなどという文献となっており、解読する人の苦労が偲ばれる。
否、聖書の知識を持ち出そうとしたのではなく、文字がただだらだらと並ぶ中に、マルコ伝は「すぐに」という言葉を多く用いることに注目させたかったのだ。ここも、「すぐに」とある。世間ではその理由や効果などが様々に説明されているが、決定的な理由があるとは思えない。文学的な特徴ではあるが、結局は読み手の受け取り方ということでよいのではないか、と私は思う。
洗礼からの「すぐ」、イエスは荒れ野でちょっとした修行のようなことに携わった。ここで説教者が原文のギリシア語から、大きな注目点を提示した。「霊はイエスを荒れ野に追いやった」と訳されているが、「荒れ野に送り出した」というのが新共同訳である。新改訳2017でも「イエスを荒野に追いやられた」とあり、これは聖書協会共同訳の敬語形であったと言えるだろう。
この「追いやる」という語は、ギリシア語としては「外へ投げる」というニュアンスをもつのだという。英語訳で「throw out; cast out; put out」とすることができる、とすればそれが伝わるだろうか。そしてこれは、「荒れ野の中へ」という方向性をもつ前置詞で行く先が示されている。英語なら「into」である。「in」と「into」の違いは、ギリシア語の前置詞ははっきりと区別されているので、ニュアンスとしては間違いないと言える。
イエスが荒れ野へ投げ捨てられた、というくらいの覚悟で、ここは聞いておいた方がよさそうだ。そのイエスが、どのような誘惑を受けたか、ということについては、説教者はマタイ伝とルカ伝を参考にしながら、説明を加える。三つの誘惑があったというが、それらは、「経済」「政治」「宗教」の三つのフィールドにおける誘いかけであったという。人間は、いくら表向き正しいことを口にしているつもりであっても、これらの領域での誘いには非常に弱いのだ。
「イエスは四十日間荒れ野に」いたことを、マルコ伝も記している。それは、当然出エジプトの40年という月日を、聖書を知る人には直ちに思い起こさせる数字である。その通りであるが、現代に生きる私たちにとって、戒めとしたい「40」があった。1985年5月8日、西ドイツ連邦議会で語られた、ヴァイツゼッカー大統領の「荒れ野の40年」という演説である。過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」という言葉はあまりにも有名である。が、ほかにも最後の方で「若い人たちにお願いしたい。他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい」と語られるところからも、私たちは本当に真正面から受け止めなければならないはずなのである。政治的発言である。だが当然、聖書を踏まえて語られているわけである。私たちは、この演説から、来年で、さらなる40年を刻むことになる。多くの教会で、この演説を顧みて、読書会などをするとよいと心から願っている。
説教者は今回ここまでは言っていなかったが、悪魔は聖書の言葉をすら用いて、聖書に従うのが神に従うことだ、と迫ってきたことは、私たちはよくよく注意しなければならない。分かりやすい例で言えば、キリスト教系のいわゆるカルト宗教においては、聖書はこう言っている、という調子で、信徒の心を操っているわけである。これが、伝統的な教会、福音的な教会と言われているところでも、起こり得ないという保証はない。私は、かなりやられていると感じているのだが、それは失礼な言い方であろうか。否、むしろ「それは失礼だぞ」という声が起こることこそが、してやられている証拠になり得るのではないか。
さて、この誘惑は、洗礼後「すぐに」受けている。キリスト教界でも、この洗礼後というのは、大きなポイントである、知恵が与えるアドバイスであろうが、悪魔は、洗礼の直後を狙う、などとよく言われる。まだ十分聖書のことが分かっていない、あるいはそこに慣れていないうちに、洗礼を受けてほっとした魂が、攻撃されると弱いというのである。
俗的で申し訳ないが、私はこの話のとき、世間で使われる「洗礼」という言葉のことが頭に浮かんでいた。そもそもキリスト教用語でも、「狭き門」のような言葉の誤解を解くような動きがないことが不思議である。浄土真宗は、「他力本願」という言葉の間違った使用法について、教団を挙げてアピールしてきた。そのため、いま次第にこの言葉は、本来でない誤った意味で使われることは、コードに引っかかるほどのものになっている。キリスト教はどうして「狭き門」にクレームをつけないのか、不思議でたまらない。その意味で、「洗礼」も困ったものである。ルーキー投手が打たれたら「プロの洗礼を受けた」などという言い方があるのである。
説教者は、信仰を単純化するべきではない、というテーゼのために、このサタンの誘惑に関することをいろいろと話してくれた。ある精神科医の言葉だということで、「喜びのファシズム」という言葉が心に残った。気になって調べてみたが、どうにも見つからない。キリスト教関係の精神科医となると、この人かな、と何人か思い当たる人がいるが、残念ながらウェブサイトで拾い上げられなかったことについては、本を具に調べ上げることは不可能である。
教会では明るい顔をしなければならない。そのような無言の強制がある。しかも信仰的な強迫観念として襲ってくる。これが制度としてまかり通るとなると、確かに「喜びのファシズム」と呼ぶに相応しい事態である。これを強要する側には、「自分は正しい」という自己義認につながるものがある、と私は見ている。何らかの権力をもつ者が、「自分は正しい」が故に、「喜んでいなさい」を正しい信仰として圧力をかけてくるのである。それも、自分ではそうと意識しないままに、いわば「無邪気に」するので質が悪い。
何らかの議論があって然るべき事柄についても、相手の考え方やしたことについて、それは罪だ、と言い放って憚らない。それは教会に限らず世の中の「人間として」も、あまりにも思いやりのない決めつけであり、しかも「聖書にはそう書いてある」という切り札をちらつかせて、相手の心を踏みにじる。こうなると、イエスの前に現れた悪魔よりも悪質であるとも言える。悪魔は誘惑の段階では、イエスを踏みにじるような真似はしなかった。
しかし、教会で痛みをもった人、悲しみの中にある人、そこに、口先だけではない「寄り添い」のできる人は、そうではない。説教者は、「悲しみの居場所がなくならないように」という方向を示してくれたが、イエスは確かに寄り添ってくださるはずである。遠藤周作のように「同伴者」というだけで終わらせるのはもったいないが、悲しい人に寄りそうことでは、イエスの愛は最高の慰めを以て迫ってくることになるだろう。
うわべだけで「寄り添います」などと宣言する人たちもいる。「被災者に寄り添います」と言って募金を集めていながら、経費を差し引いた「一部を募金します」とすることに、私は抵抗したことがある。それは「寄り添う」などという言葉を使う場面ではないのではないか、と。もちろん、一蹴された。他方、困難な生活をしている人のために、本当に身も心も献げて労しているある人は、それでも自分が自宅に帰って温かな布団に入ったとき、自分は何をしているのだろう、と悲しくてたまらない、と言う。自分は寄り添ってなどいない、と流すその涙のほうが、よほど寄り添っているところに近いのではないか、とも思う。
その涙は、自省の意味もあった。だが、どうしようもない面もある。布団に入らず、外でその人が寝たとしても、困難な生活の人々のためには何にもならないのである。できるのは、その痛みを伴いつつ、神に祈ることだ。災害があり、被災者が心身ともに大変な目に遭う。財産も失い、途方にくれる。今後の仕事もない。キリスト者は、そこでも祈る。だが、祈りつつ、辛くてたまらない。自分には何もできない。いくらかでも、募金に協力はするだろう。だが、それが何の役に立つのか、微力すぎてむしろ苦しくなる。そして、そんな傷ついた良心を自ら癒やそうとするためか、自分には祈ることはできるのだ、とどこか開き直るような考え方をして、それを信仰なのだ、と自信をもってくる場合もあるのだろう。
説教の中から、良い言葉を学んだ。「negative capability」という。日本語にすれば「消極的な能力」とでもすればよいかもしれないが、どうも似合わない。詩人のジョン・キーツが発したと言われ、「不確実なものや未解決のものを受容する能力」のようなものを指すのだという。詩人が書簡の中で言っていた言葉だというが、「詩」なるものを、これの意味はこうだ、と説明してしまったとしたら、もはやそれは「詩」ではなくなるだろう。そして、「詩」の存在意義すら消滅してしまうだろう。そしてそれは、聖書もそうなのだ、と私はいつも捉えている。
説教者はこの概念を紹介すると、イエスの言葉に、分かりやすい解答を求めることは適切でない、と教えた。洗礼の後に誘惑があるのは何故か。このとき「誘惑」というのは、悪魔の誘いかけのいやらしい姿を想像するばかりがよいのではない。洗礼の後に、試練が与えられることが多いのだ。辛い出来事が立て続けに起こる。こんなことなら、信仰などもつのではなかった、と嘆くかもしれない。そこへの慰めのために、説教者は実はこの説教の多くの時間を費やしてきた。その苦難も、謎であっていい。結論を安易に下すな、ということは、いま試練の中にある人への、精一杯の叫びであったのだと思う。
受験生がいまの時期、苦しんでいる。一律に投げかける言葉というものが見つからない。せめて、出会う一人ひとりの生徒に、できるだけ相応しい形で、声をかける。そもそも教室で、生徒全体に、きつい戒めを語れば、それを聞く必要のない良い子が真剣にその言葉を受け止め、他方その言葉を差し向けたはずの生徒のほうが、全く聞いていない、というのは、教室の常態である。
聖書の言葉を語ることが、時に空しくなることがあるのは、これと似た構図があり得るからではないか、という気もする。それでも、説教者は、会衆全体に語る。それは神の言葉である。全員には伝わらないかもしれない。しかし、誰かの心が開かれる。誰かが、その言葉を通じて神と出会う。否、より正確に言えば、語られたその言葉そのものが神であって、その神と、その人が出会うのだ。
説教者は、たぶんお好きなのだろうと思うが、小説家フラナリー・オコナーの言葉を、アメリカの説教者の中にあったとして引用した。難病のために39歳で没したオコナーは、キリスト教精神に満ちた物語を、駆け足で書き遺した。説教者が以前にも引用したので、私はその全短篇を手に入れて味わった。オコナー自身はカトリックの信徒であったはずだが、小説の中では、神との強い格闘のようななものを感じることができたように思う。ただ、ここで引かれたオコナーの言葉は、病の中に神の憐れみを見出すというようなものだった。死の前に病があったことで、自分はそこに場所を見出した、というのである。
説教者は、人生を改めて「旅」に比して語り始めた。まるで幻が、そこに見えているかのようであった。本日の説教で語ってきたことを、次々と繰り出して、人生の旅の中に盛り込んでいったのである。私たちもまた、きっとこの「荒れ野」があるはずだ。だがそこには、必ずイエス・キリストが立っている。イエス・キリストは私を見放さない。外へ投げ出すほどの試験はお与えにならない。その信仰に気づいて、魂の内側から「喜び」が生まれてくるのだったら、それは決して「ファシズム」にはならないだろう。むしろ、神の出来事として、喜びは連鎖反応を呼び起こすことだろう。悲しみの居場所を知っており、それを認める思いのあるところに、そのような「リバイバル」が始まるに違いない。そう信じようではないか。
いま、その荒れ野に、あなたが一つの花を見出すことができますように。