すべてのものが (フィリピ2:9-11, ダニエル9:19-23) クリスマス礼拝
◆暦
2024年も間もなく暮れようとしています。今年はどんな年だ、と振り返りますか。また、来年はどんな年であるようにと願いますか。――と、このような会話が自然と交わされる時期であるのですが、考えてみると、この一年という区切りは、どのようにして決められたのでしょうか。
どうして、この1月1日が、年の初めなのでしょうか。十日ほど前に「冬至」というものがあります。どうせなら、この冬至から一年、というのなら、まだ合理的であるような気がするのですが、微妙にずれています。世界にはいろいろな暦がありますが、とりあえず国際的には、同じ1月1日を設定していることになります。何故この日なのでしょうか。
古代ローマでは、いまの日本と同じように、春が年の初めでした。いまの3月に当たります。その前の冬の2か月は、寒くて仕事にならず、名も付けられないままに、ただの冬ごもりの時期のように見られていたことがあるとのことです。
さる筋から聞くことによると、とても一言では言い切れない複雑な事情が重なって、多分に政治的に、春の始まる前の2か月間が始まる時を以て、政治的な一年の始まりとする暦が、紀元前1世紀頃までには定められていたとのことです。
あるいはまた、キリスト教サイドの理由から一年の始まりが決められた、という話も聞きました。復活祭の関係から、春分の日を定める必要があり、そこから逆算して1月1日が決定した、というのです。歴史的な始まりについては、簡単には分からないことが多いものです。あれこれ調べてみると面白いかもしれません。
現代において一年を定めるとすると、先ほど触れたように、たとえば冬至の日を基準にして一年の初めとするなど、天文学的な知識から、合理的に定めたことでしょう。しかし、そうはなりませんでした。
さらにクリスマスは、この冬至の頃の異教徒の祭を、キリスト教が奪った、とも言われています。それでも、クリスマスは冬至の日そのものではありません。なんだかもやっとします。その昔は25日が冬至だったのだ、などという説明も見たことがありますが、私には判断ができません。昼の長さが最短なのが冬至ですが、12月21日前後です。日の入りが最も早いのは12月前半、日の出が最も遅いのは1月前半あたりだと言われますから、こうした基準を考えても、1月1日と重なることはありません。
言えることは、時間を支配する権威を人間は求めていた、ということと、古代でも天文観測そのものの技術は相当高かった、ということくらいです。時間支配という意味では、いまも天皇の代替わりで年号和替えようとするのも、天皇が時間を支配しているという意味合いをこめているのだろうと思います。
ともかく一年の終わりのいま、キリストを深く思うひとときを、キリスト教徒は過ごします。冬至の頃、その後は昼が長くなる、という希望を重ねることができる機会を、信徒はクリスマスに載せました。
◆フィリピ書を振り返る
クリスマス前の約1か月の間、いわゆるアドベントの期間に入ってからは、私たちは、フィリピ書2章の初めのところを追いかけてきました。改めて、その全体をもう一度見つめることにしましょう。
1:そこで、幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり、憐れみや慈しみの心があるなら、
2:同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
3:何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。
4:めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。
5:互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。
6:キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず
7:かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。/人間の姿で現れ
8:へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。
9:このため、神はキリストを高く上げ/あらゆる名にまさる名を/お与えになりました。
10:それは、イエスの御名によって/天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが/膝をかがめ
11:すべての舌が/「イエス・キリストは主である」と告白して/父なる神が崇められるためです。
クリスマス礼拝と定められた今日、私たちが目を注ぐのは、その最後のところです。
9:このため、神はキリストを高く上げ/あらゆる名にまさる名を/お与えになりました。
10:それは、イエスの御名によって/天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが/膝をかがめ
11:すべての舌が/「イエス・キリストは主である」と告白して/父なる神が崇められるためです。
本当は、この聖書本文を朗読するだけで、もう十分な礼拝であると言えるのかもしれません。神の言葉を読み上げ、それを聞く。そのことが、神の言葉を聞く、と呼ぶに最も相応しい礼拝である、というのは本当のことだと思います。しかし、礼拝の中では伝統として、聖書の言葉の説き明かしを致します。
私のような小さな者が、そこで余計な言葉を付け加えて、神の言葉がもたらす命を薄めてしまうようなことがないように、と願いたいものです。どうか、神の言葉が、私の声の横をすり抜けてでも伝わって、神の力が命となって伝わり、注がれますように、と祈るばかりです。
◆イエスの生涯
さて、救い主キリストは、イエスという名を与えられた幼子として、この世界に生まれました。イエスの成人までの様子は、少なくとも聖書には記録されていません。30歳くらいのときの活動が、福音書に実に詳しく記録されていますが、それ以前の姿は全くの謎です。
それで、後に様々な伝説が生まれました。子どもの時期に、どこか残酷な超能力者であるかのように描かれたものもあります。マタイ伝とルカ伝にある、いわゆるクリスマス物語についても、その子が、イスラエルが待望した救い主メシアである、ということを明らかにするためのひとつの物語であるのでしょう。
私たちは想像するしかありません。イエスは、宣教を始める前には何をしていたのでしょうか。興味が湧くテーマではありますが、でも、あまりに想像に走ると、あらぬ誤解や思い込みを生むことになりかねません。
フィリピ書を味わい、私たちは、キリストを模範としてへりくだること、そして仲間と思いを一つにすることを求めたいこと、これらをアドベントを通じて示されてきました。キリストの姿を目の前に置き、常に心に懐いていたいものです。そのキリストは神の形をもつはずでしたが、敢えて人間の形をとりました。偉大な主人であるべきところを、奴隷の姿で現れて、私たちに仕えるということをしてくださったのです。
それどころか、その生涯は惨めなものでした。弟子たちには理解されず、憎まれ、命を狙われ、ついには裏切りの末に、世にも残酷な殺され方をされなければなりませんでした。その短い一生は、酷い十字架刑へと突き進むだめの歩みだったのです。
ただ、その死ですべてが終わったのではありません。十字架の死の三日後に、イエスは復活するのです。パウロは「キリストを高く上げ」たことだけ、ここに述べていますが、パウロは他の箇所で、復活ということについて、しつこく語り、熱く聞かせていますから、ここでもキリストの復活を頭に置いていないはずがありません。
復活のキリストは、栄光の姿です。このイエスの御名を通して、すべてのものが神を崇めることになります。「天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが」神を崇め、「イエス・キリストは主である」と告白するのです。パウロは、そのような情景を伝えています。このことは、必ずそうなること、当然起こるべきこととして、私たちに知らせています。
もちろん、私たち現代のキリスト者も、これを受け取っています。果たして私たちはいま、必ずそうなると、当然起こるのだと、本当に考えているでしょうか。信仰しているでしょうか。
◆愛される者
引用するには、やや不自然な切り方をして取り出すことを、お許しください。旧約聖書からも声を聞きたいと願います。ダニエル書を開きます。
ダニエル書は、位置的にも微妙なところにあります。キリスト教では、イザヤ・エレミヤ・エゼキエル、そしてこのダニエルという四つの預言書をまとめて、「大預言書」と理解しています。しかし、ユダヤ教の分類では、これは詩編や箴言などの仲間に入れられています。ダニエル書は、「黙示文学」であるという、特殊な扱われ方をされているのです。
新約聖書で言えば、「ヨハネの黙示録」に相当します。事実、ヨハネの黙示録の中には、このダニエル書を明らかに引用して述べているところがあり、見方によっては、そっくりそのまま使っている、と言っても差し支えない様子が見て取れます。つまり、キリストを救い主とする立場からしても、このダニエル書の描写は、本当にこの世界の終わりにあたってそのまま当てはまるものだった、ということなのでしょう。
ダニエル書は、最初のほうは、なかなか面白い物語が並んでいます。バビロニア王国からペルシア王国へと支配が変わる中でダニエルが活躍するのですが、ユダヤ人の三人の若者と共に捕囚者の中にいました。肉を食べないことから要注意人物と見なされますが、野菜だけでも健康であったとして認められてゆきます。その賢さから役人として取り立てられ、要職に就きます。しかし、こうしたユダヤの秀才たちは、イスラエルの神を信じることから、燃える炉の中に入れられたり、ライオンの洞窟に投げ込まれたりします。しかし、神はその命を救ってくださいます。
子ども心をくすぐるような、わくわくした物語です。このような派手な救出劇に、私たちはどうしても注目します。但し、ダニエル書の後半は雰囲気が変わり、終末の出来事が幻のように描かれます。正にそこが黙示的な部分であり、黙示文学とされるに至る理由です。この終末の預言には、他の預言書と同様に、イスラエルに厳しい裁きを告げる部分もありました。今日は9章の途中から言葉を受けます。
19:主よ、お聞きください。主よ、お赦しください。主よ、心を向けて御業を行いください。わが神よ、ご自身のゆえに救いを遅らせないでください。そうです、あなたの都でも、あなたの民の間でも、あなたの名は呼ばれているのですから。」
20:私はなお語り、祈り、私の罪と私の民イスラエルの罪とを告白し、また、私の神の聖なる山について、私の神である主の前に嘆願を献げていた。
自分の罪とイスラエルの罪とを神に告白していたのでした。どうかあなたへの背反を、どうか赦してください。そう強く祈っていると、そこへ天使ガブリエルが現れます。クリスマス物語で、イエスの母となるマリアの前に現れ、いわゆる「受胎告知」をした天使です。いえ、ルカの方が、このダニエル書などを参考にして、ガブリエルを登場させた、というのが時間的に適切な順序でしょう。
21:私がまだ祈り語っていたとき、先に幻で私が見たあの人、ガブリエルが飛んで来て、私に触れた。夕べの供え物の頃であった。
22:彼は私に理解させようとして、こう言った。「ダニエルよ、今、あなたに悟りを授けるために出て来た。
23:あなたが嘆願を始めたとき、御言葉が現れたので、私はそれを伝えるために来た。あなたは愛される者。この言葉を悟り、この幻を理解せよ。
ダニエルという名は、「神の審判」を意味する言葉だそうです。神はこの世界を終末に審くということになっていますが、そのことを預言するために登場したのかもしれません。神の審きを強調するために使わされた預言者であるのですが、ここでガブリエルは、「あなたは愛される者」だという言葉を伝えています。愛されるダニエルよ、さあ、言葉を語るのだ。幻を理解せよ。類い希な知恵を発揮したダニエルですが、神から与えられることなくしては、何もできない人間に過ぎませんでした。すべての奇蹟は、神がダニエルを通してもたらしたものだったのです。
◆クリスマスの記事
ダニエル書は、一説によると、旧約聖書の中でも最も遅く書かれたものであるそうです。イスラエルを救うメシア、即ちキリストを待望する空気がイスラエルの中に膨れていく中で書かれた、と考えられます。バビロン捕囚から帰還して、新たな国づくりを始めたイスラエルでしたが、ペルシア王国からローマ帝国と、大国の支配を受け、そこから国を救う英雄を待ち望んでいたのです。
しかしダニエル書は、まず「罪」から入り、神に祈り求めるダニエルの姿を描きました。ただ「救ってください」と言うわけではないのです。ただ「敵をやっつけてください」ではないのです。痛いほどに、自らの「罪」を意識し、それに押しつぶされそうになり、喘ぎながら、神に救いを求めているのです。
いわゆるクリスマスの記事は、そのような民族の悲願の思いの中で、読んでいかなければなりません。いまその記事を読み上げはしませんが、多くの方は、聖書に書いてある「クリスマス」の物語をご存じでしょう。
マタイ伝とルカ伝とが、クリスマス物語を描いています。マタイ伝は父ヨセフを中心に綴りましたが、ルカ伝では母マリアが中心でした。マタイ伝では、外国人である東方の博士たちが、誕生したイエスを訪ねて来ましたが、ルカ伝では、ユダヤ人でありながら差別を受けていた羊飼いたちが幼子イエスに出会う物語が描かれていました。
クリスマスの祝祭は、このうちのどちらかの場面を以て、お祝いとします。あるいは、両方とも取り上げて聖書を朗読する、ということもあるでしょう。いわゆる「クリスマス・イブ礼拝」は、そのようにするのが普通かと思われます。
「救い主が生まれた」というのは、うれしいニュースです。この世に救い主が現れたのは、私たちの救いを与えられる意味では、間違いなく最高度の喜びの知らせです。しかし、フィリピ書は、そこからイエスの道がどうであったか、そちらに急ぎ向かってゆく書き方をしていました。私もまた、誕生したイエスの、その後の地上生涯を見失いたくはないと思いました。
イエスが生まれた。それは確かに祝うべきことですが、それは、イエスがなぜ人となったのかに目を向けなければならない、と思ったのです。イエスが目指す十字架と、死からの復活についても、どうしても見逃してはならない、と思いました。そこまで辿ることによって、大いに神を賛美したいのです。
クリスマスには、確かに独特のムードがあります。欧米の習慣のきらびやかさが、商業中心の輝きを受けて、信仰のない日本においてなどは、どんちゃん騒ぎと欲望の坩堝にすら成り果てています。でも、いまはそこへ眼差しを向けることはやめておきましょう。美しいこの出来事と、この闇に光をもたらす輝きとに、目を向けましょう。
離れていた家族がクリスマス休暇に集い、温かな家庭を確認し合います。ふだんいがみ合っていたかもしれない者たちが、優しい心を取り戻して、愛が大切なのだ、とそれぞれに言い聞かせている光景を想像します。人々は互いに赦し合い、贈り物をします。
こういう文化に触れた日本人が、その光景に憧れたのも肯けると思うのです。
◆クリスマスの陰で
キリスト教会も、当然、クリスマスを祝います。世間の祝い方とはかなり違うだろうとは思いますが、しばしば教会は「ほんとうのクリスマス」とポスターに示して、世にアピールします。エホバの証人のように、クリスマスを目の敵にする団体もありますが、普通の教会でクリスマスを無視するところは、まず見当たりません。
クリスマスは、喜ばしい知らせです。まさに「福音」です。そして、なにしろ赤ちゃんの誕生です。ソフトに、誰もが祝う場面となります。救いの根幹が十字架にある、と考えるのは当然あってよいことですが、そこにはどうしても、血が連想され、なにしろ死ぬという事件です。その先の復活は救いであり希望ですが、死んで「わーい」というのもどこか変です。
子どもの誕生を祝うのは、とても自然なことだと見られます。しかし、このような言葉をラジオのCMで聞いたような気がします。
「ある番組を見て笑う人がいる、同じ番組を見て泣く人がいる」
確か、番組倫理委員会というようなところからのメッセージでした。同じ報道や番組内容の放送を聞いて、それで笑う人がいたとしても、それが悲しく響く人もきっといる、という指摘でした。具体例はそこからは示されませんでしたが、私たちはそれを、本当のことだと受け止めるのではないでしょうか。
スポーツでさえ、勝ったチームのファンは喜ぶでしょうが、負けたチームのファンは悲しみます。いえ、先の言葉は、その程度のことを言っているとは思えません。誰かが不幸な人を嘲笑うような笑いがあったとすると、笑われた方は悲しむしかありません。ぼろ儲けをした人の笑いの陰には、搾取された側の人の涙が伴います。
幸せそうな人を見ると、たまらなく辛い、と思う人もいます。それはその人の心の問題だ、と言う人もいます。が、強い立場の人が、弱い心の人をけしからんと決めつけることには、少なくともキリスト教の思う「愛」はありません。
教会のクリスマスでは、礼拝の後にしばしば「祝会」というものが催されます。しめやかな礼拝の後に、ちょっと羽目を外したパーティーが開かれることも珍しくありません。さっきまで神妙な顔で礼拝に出ていた人が、人格が変わってしまったような姿を見せる、ということもあるようです。さすがにそこに酒は入りませんが、祝会なんだから、楽しみ騒ぐのが当然だ、というような縛りさえ感じられることがあるといいます。
楽しめる人はそれでよいのでしょぅが、必ずしも教会にいる人は、そのような人ばかりではありません。お祝い事であっても、もしかすると誰かを傷つけているかもしれません。
祝祭だということを否定するつもりは、もちろん私にはありません。ただ、このクリスマスで「大切なこと」は何だろうか、と考えさせられることはあります。できれば「思いやり」のある、「愛」の時と場でありたいと願います。
イギリスと旧イギリス連邦だった国々では、クリスマスの後、「ボクシング・デー」という日が設けられていると聞いています。クリスマスに仕事をしなければならなかった人たち、あるいはクリスマスを華やかに過ごせなかった貧しい人々に、プレゼントを届ける習慣です。箱に入れるから、ボックスの日、というのが「ボクシング・デー」の意味です。
実情はどうであれ、このような視点が併存するというのは、クリスマスという時に相応しいのではないか、と私は感じます。
◆すべてのもののために
9:このため、神はキリストを高く上げ/あらゆる名にまさる名を/お与えになりました。
10:それは、イエスの御名によって/天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが/膝をかがめ
11:すべての舌が/「イエス・キリストは主である」と告白して/父なる神が崇められるためです。
いつの間にか、自分だけ、あるいは自分たちだけ、という視点から、世界を見るようになりがちな、私たち。でも、このフィリピ書を読むだけで、神を見上げるのは、キリスト教会だけではないことに気づかされます。「天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが」神の前に出て、神を崇めるのです。「すべての舌が」、イエスこそが主である、と信仰を告白するのです。少なくとも、そうここには記されています。
「主」とは「主人」のことです。それに仕えるのが「僕」であり、有り体にいえば「奴隷」です。キリストは、「神の形」でありながら、「僕の形」をとったのでした。キリストは、主人であるべきなのに、奴隷となったのでした。しかし、当然のことですが、イエスこそが「主」です。それならば、私たち人間が「僕」です。
それなのに、私たちは「神の子」とされた、と新約聖書はあちこちで喜んでいます。神とは決定的に断絶された存在である人間のくせして、ある種の対等さを与えられているような言い方です。もちろん神になるわけではありませんし、イエスと同じになるわけではないのですが、あのダニエルが愛されていたように、私たちも愛されていることを、ひしひしと感じます。天使ガブリエルがここにいたら、「あなたは愛される者」だと、私たちへ向けて、私へ向けて、告げてくれたかもしれません。いえ、聖書の中から、常にそう告げている、と信じることが大切なことであるに違いありません
愛されている。その愛を知っている。ならば、その愛を、今度は私が人に伝える番です。教会が、人々に伝える使命を受けているのです。クリスマスは、世間ではずいぶんとズレたものになってしまった、と私はアドベント当初から嘆いていました。が、ここで考えを改めようと思います。実はクリスマスを教会だけのものだ、と独占禁止法に触れるようなことを考えていたのは、私たち教会の人間の方ではなかったでしょうか。本当のクリスマスを、教会だけの行事だというふうに、心のどこかで優越感を覚えていたのではないでしょうか。
まず自らの罪を知り、神に告白するならば、「あなたは愛される者」と呼ばれるでしょう。そのとき、クリスマスは神の愛の一つの極みだった、と知るでしょう。すると、このクリスマスにおいて、「すべてのもの」が、イエス・キリストを仰いで神とつながって幸せになるべきことに気づかされるでしょう。
そのようにして、私たち教会の者の意識が、そして存在そのものが、変えられてゆくでしょう。狭い思い込みから解放されて、自由を与えられて、見えなかったものに気づかされることでしょう。クリスマス、それは、「すべてのもの」のための出来事でした。イエス自身の口から発されたのではないけれど、福音の始まりでした。初めてこのクリスマスを自分のことだと受け止めた人にとっては、もちろん素晴らしい始まりです。しかし、どんなに長く信仰生活を送ってきた人でも、「すべてのもの」に対する神の愛を知る始まりとなることができるのです。
そこで、このクリスマスに、改めて告白しましょう。「イエス・キリストは主である」と。