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ずばり愛について (ヨハネ15:9-12, ダニエル10:11)

◆キリスト教は愛でしょ
 
キリスト教のイメージについてのある調査(庭野平和財団・2019・https://www.npf.or.jp/pdf/2019_research.pdf)によると、神道や仏教に対して、キリスト教は、やや神秘的なものが他より多めのようでしたが、「特にない・分からない」がなんといっても4割を超えているのが目につきました。また、ひじょうに、またはまあまあ「信頼できる」としたのは、神道や仏教では3分の2あったのに対して、キリスト教は3分の1しかありませんでした。
 
どう思いますか。これが日本の現実です。だから、キリスト教とくれば「愛」の宗教だと思われていますね、などと教会で言ったとしたら、少なくともこの国においては全く見当違いとなります。あまり、またはまったく「信頼できない」のが3分の1もあるのは、他が5分の1しかないのに比べても高い数値です。
 
それなのに、今日は「愛」についてお話ししようとしています。つまりは、仲間内だけの話だということになります。
 
「アガペー」という語は新約聖書のギリシア語ですが、高校の倫理の教科書にも載っていますし、それを「エロース」と比較しての説明は有名です。この対比は、1930年代に表された『アガペーとエロース』というニーグレンの本により非常に有名になりました。比較的近年においてのことなのです。あまりに単純に対比させてよいかどうかは疑問がありますが、ここからも、その対比を用いてお話をしていくことに致します。これについては、渡邊二郎の『人生の哲学』が改めて角川ソフィア文庫から今年発行されていて、その第5章から6章で熱く語られていますので、より深く考えてみたい方にはお薦めします。
 
因みに、聖書の中にこの「エロース」の語は出てきません。比較するなら「フィリア」のほうでしょう。よく「友愛」のように説明されます。復活したイエスとペトロの対話で話題になりますが、いまはそこに関わりません。
 
「エロース」は、人間が何かを希求する心の働きを言います。その欲求の最たるものとして、近代的には性的なものに限定されて使われることがありますが、プラトン哲学では重要な概念です。当時は常識的なものであった少年愛というような理解から、ソクラテスが善や幸福といった、価値ある高いものを求めて上昇する魂のはたらきを見るべきだとしたのでした。これについては後でまた触れます。
 
日本にキリスト教が伝えられたとき、この「アガペー」を日本語で何と訳そうかと、関係者は悩んだそうです。最初は「愛」は選ばれませんでした。「御大切」とキリシタンたちは理解していたと聞きます。これはなかなかいい言葉だと私は思います。いっそ、いまの聖書やメッセージでも、「愛する」というところを「大切にする」とでも言い換えるとよいのではないかと思うときがあります。皆さんも、時にやってみませんか。
 
◆日本人の「愛」
 
どうして最初に「アガペー」の訳として「愛」が選ばれなかったかというと、それは、「愛」という語は、キリスト教の「アガペー」とは縁遠い意味を含む語だったからです。
 
ともすれば私たち現代のクリスチャンも、「愛する」という語を用いるのに、ためらいを覚えることがありませんか。パートナーや親や子に向かって、「愛しています」という言葉を言えますでしょうか。
 
明治期の文豪夏目漱石にまつわる俗説があります。「I love you」を生徒がまともに訳したとき、英語教師の夏目先生が、「日本人はそうは言わない。『月がきれいですね』とでも訳しておきなさい」と言ったというエピソードです。文献的な証拠はないそうですから、これをしたり顔でひとに話すと、「痛い」人になってしまうので、お気をつけください。
 
それはともかく、「愛」の概念は、その訓読みに現れてくるだろうと思い、集めてみましょう。「めでる」はすぐに出てくるでしょうか。「いとしい」を思いついた方、いらっしゃいますか。人名からは「まな」という読み方がありますね。特殊な読み方を用いた文語訳聖書だといろいろありそうですが、聖書の訳ではなく、古来日本人がこの「愛」に懐いてきたイメージを明らかにするために、もう少し考えてみましょう。
 
古典に詳しい方は、「うい」という読み方をご存じだと思います。目下の者に対して、感心だと思うことを意味します。「おしむ」「いつくしむ」もあります。そしてこれらの読み方が生じる基本的な概念は、「かなしい」です。心が痛むのです。それがもしもなくなったら辛い、それほどの思いを寄せているのかもしれません。だから「おしむ」のであり「いつくしむ」思いが満ちているというわけです。
 
「可愛い」も「愛」という字を用います。可愛く思うのでそれに心惹かれる、また心にしみて、守りたいと思う、失ったら悲しいだろう、そうした心情を含む「愛」の文字でした。こうすると、「大切にする」という先の提案は、日本語の本来の「愛」に接するところも多いような気がします。が、これを阻む「愛」の概念がありました。それが、仏教思想です。
 
◆仏教から見た愛
 
ブッダは、「愛」は苦であるとしました。妻子を捨てて悟りを開くために出家した身としては、愛する家族が悟りを妨げるものと見えたのも無理はありません。でも、こうした時に考えられた「愛」は、博愛という考えを含むことはありませんでした。なにものかを愛するということは、他のなにものかを愛さないということです。「愛国心」という言葉の危険性を見ることも可能です。
 
「愛」はトリシュナーという語の訳であり、元は「渇愛」としていました。それは貪欲であり欲望です。私たちが「偏愛」とか「愛着」とかいう語について「愛」の字を使うときの考え方に近いと思われます。物事への執着や貪りのことです。それらを「無」と言い切るところに、仏教の神髄があるようにも思えますが、あまり偉そうに言うとぼろが出ましょうから、詳しくはよくご存じの方にお話を聞いてください。
 
ただ、他方で仏教には「慈愛」という考え方もあります。見返りを求めず愛することを表します。これならば、「アガペー」に接近するかもしれませんね。しかも「捨身」という言葉までくると、相手のために自らの命を投げ出すこと(ウサギちゃんには涙が出ます、月にいることの奇譚とも言うべきか)をいいますから、イエス・キリストの姿と重ねて見ることさえ可能になるでしょうか。しかし他方、先ほどの「渇愛」や「偏愛」のような方向で捉えると、これは「エロース」の方に近づくようにも見えます。
 
◆エロース
 
YouTubeチャンネルで「彼女の愛が重すぎる」というのを発見しました。とにかく彼が好きな女子大生が、とことん愛に尽くす様子を、顔なし動画で投稿したもので、先般本まで出しました。微笑ましいというか、見る方が恥ずかしくなるというか、でも恋愛に悩む女子の強い支持を受けているのも分かります。
 
恋はしばしば、自分の目的を得ようとすることになります。それでこそ子孫繁栄となるわけで、何もそれが悪いことではありません。けれども、中高生のころ、よく恋愛記事などで、ありませんでしたか、「恋と愛との違い」についての話が。それはしばしば、「恋」は自分が中心で自分が幸せになること、「愛」は相手が中心で相手の幸せを思うこと、などという口調ではなかったでしょうか。
 
ギリシア語の「エロース」は、この聖書の神学に出てくるときには「愛」と呼ばれますが、プラトン哲学からするとむしろ「恋」という語が使われるのが一般的です。『饗宴』がその舞台であり、このタイトル「シュンポシオン」は、いま「シンポジウム」という語になって残っています。そこでは「なぜ恋は美しいものを求めるのか」という観点から話が始まり、「何を求めるのか」が話題となります。それは「美しいもの」であったり、「善いもの」であったりするといい、その結果もたらされるものは何かというと「不死」であり「幸福」だということになります。
 
でも、そのためには、「美しいもの」「善いもの」をただ所有することだけでもたらされることはない、とするところが登場するソクラテスの狙い目でした。つまり、見た目の美や善というレベルではない、イデアと呼ばれる理想の意味での美や善の本質のようなところをこそ求めるのでなければならない、とするのでした。
 
ソクラテスがこの恋ということで、少年愛を具体的に思い描いているところが、私たちにはついて行けそうにない部分ですが、それはともかく、エロースの高尚な意味合いが、少し垣間見えたでしょうか。どうしても「エロ」という言葉でしかイメージされないものが頭にこびりついているかもしれないとは思いますが、ここを踏まえておかないと、「アガペー」への誤解すら起こりかねないので、コメントしておきました。
 
因みに、「プラトニック・ラブ」という言葉は、この『饗宴』に基づいており、肉体的なものではなく、精神的な愛という意味を「プラトン的な愛」という呼び方で表したものでした。これがまさに「エロース」なのですが、さて、今時の若い方々にとっては、「プラトニック・ラブ」なんぞ、聞いたこともない言葉であり、概念なのでしょうね。
 
◆愛の関係
 
「愛」について心の準備をしてきました。ようやくヨハネによる福音書に入りましょう。その特徴として、「父なる神」と「子なるイエス」と、「あなたがた」、つまりキリスト者たる人間との関係が「愛」で結ばれているというものがあります。できるだけ簡潔に述べるために、それぞれ「父」「子」「人」と呼んでお話を続けていくことにします。
 
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 
ここを押さえておくことは、聖書の大切な核心を捉えることにつながるように私は感じています。ここでは、父と子の間の「愛」の構造が、子と人との間にパラレルに実現すべきであることが語られます。類比の構造と呼んでもよいかもしれません。このとき、その関係を保証するのが「愛」であるわけですが、同時にそれは、「掟を守る」ということでもあると言われています。つまり、「愛」とは「掟を守る」ということだというのです。
 
それは、同じヨハネによる福音書の、少し前の箇所でも教えられていました。
 
13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。
 
今日のペリコーペ(取り上げた聖書箇所)でも、それは繰り返されています。
 
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
 
こうした「掟」というのは、むしろ「命令」に近いような響きの語で、しかもその「結果」に着目したような意味合いをもつと言われています。一定の目的をにらみ、そこに気持ちを集約させているものです。形だけ勉強して、どこかに合格できたらいいなあ、というのではなくて、初めから、あの学校に合格したいから勉強しなければならない、という姿勢と比較してもよいでしょうか。
 
さしあたり「愛し合う」ではないのです。それは人と人との間の「愛」だと思いますが、形だけ愛すること、まるでただの「恋」のように、自分の思いや自分の求めから好きになるようなことではなくて、相手の益になることを第一として、そのために自分がなすべきことを考えるという交わりを想定していることになります。
 
その人と人との間の「愛」を、互いに目指す。するとそこに、キリストの弟子であることが誰の目にも分かるようになる。つまりは、ここに「神あり」と他の人々も分かる。こうしてそこには、神の国のひとつの実現を思わせる姿があることになります。それは、ニコデモに「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)と告げたように、新しく生まれる経験をした者たちの交わりです。そしてこの延長上に、聖書の中の聖書と呼ばれる次の言葉が待ち構えていたのでした。
 
3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
 
◆もうとどまっている
 
お開きしたペリコーペの最初に戻ります。
 
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
 
イエスを信じ、父と子、子と人、この関係の中に加わることが求められています。先の3:16の中には、この先に「永遠の命」を準備しているのでした。そこには「滅び」がないと言い切ったのでした。
 
イエスは弟子たちを愛してきたとここで言っています。その愛は、地上での旅全般を覆っていることでしょうが、やはり私たちには、弟子たちの足を洗ったあの箇所が脳裏に浮かんでくるものです。最後の夜が近づく足音が聞こえるような緊張の中で、イエスは弟子たちに仕える、奴隷のような営みを始めます。
 
13:1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
 
「この上なく」というのは、「最後」または「目的」に至るまで、という感じでしょうか。イエスは弟子たちを、どこまでも愛し愛し愛し続けたのです。イエスの生涯は、私たちが見つめてきた、あの「愛」の生涯でした。理性でも心でもイエスをとても知ったとは言えないような弟子たちでしたが、イエスの十字架と復活の後には、聖霊を使わすことでそれを知ることができるものと捉えていたのでしょう。見るところ頼りなくだらしない弟子たちの姿に、イエスは絶望をすることもなく、愛を貫いたのです。
 
愛されることでこそ、私たちは愛することを知る。そのような捉え方があります。愛を受けて育てられたた子は、それだけで恵まれているとも言え、逆に言えば、愛されずして育った子には、難しい問題が潜むと言われることがあります。ただ、それは決めつけてしまわず、辛い過去をお持ちの方も、このイエスの愛により立ち上がることができるように、と切に願っています。
 
さて、この「愛してきた」ことを告げたことに続いて、イエスは「わたしの愛にとどまりなさい」と言っています。「とどまる」とは、そこに残り、我慢強く待ち、じっと居続けることを表します。ですから、「わたしの愛にとどまりなさい」に続いて、こう言ったのです。
 
15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 
イエスは、父の愛に「とどまる」ことをしてきました。人もまたイエスの愛の中にとどまっている「ことになる」のです。もはや最後は「とどまりなさい」と命じるような形ではありません。もうあなたは、イエスの愛の中にいるということです。あなたはイエスの愛の中に、じっと居続けることになっている、というのです。あなたがいまどういう状態であるにせよ、弟子たちのような無理解であろうとなかろうと、この聖書の言葉を受け容れたとき、そして「愛」の大切なことに気づき、イエスがあなたを愛したということに気づいたそのとき、あなたはイエスの愛の中にもう居続けていることになるのだ、と。
 
◆ダニエルのように
 
最後に、旧約聖書のダニエル書を開きます。ダニエルは旧約聖書の預言者の一人ですが、このダニエル書は、ユダヤ教が取り扱うヘブライ語の聖書においては、いわゆる「預言者」の中には数えず、黙示文学として別扱いにされています。
 
ペルシア王国で賢い少年たちの一人として教育されたダニエルは、王国では「ベルテシャツァル」と名のらねばなりませんでしたが、心では密かに主なる神を求め、どんな脅しにも屈せずに、この神を礼拝する心を引き渡しませんでした。そのため幾度となく危ない目に遭いますが、神はそれらの災いからダニエルたちを救います。
 
ダニエルたちはペルシアの高官となり、王国のために力を尽くしましたが、そのダニエルも年老いてきました。なにしろ酒すら飲めるほどの年(とはいえ昔は子どもも酒を飲んでいたともいう)の少年ダニエルたちを連行したネブカドネツァルの時代からざっと40年近く経っています。主なる神はこのダニエルに、今後起こるはずのことを丁寧に語り告げたのでした。一人の不思議な人の幻が見えた中、ダニエルは、「力が抜けていき、姿は変わり果てて打ちのめされ、気力を失ってしまった」(ダニエル10:8)と言っています。そして声を「聞きながら意識を失い、地に倒れた」(10:9)のでした。
 
そのとき、一つの手がダニエルに触れて、引き起こします。ダニエルは手と膝をつきました。そこで、お開きした言葉が記されます。
 
10:11 彼はこう言った。「愛されている者ダニエルよ、わたしがお前に語ろうとする言葉をよく理解せよ、そして、立ち上がれ。わたしはこうしてお前のところに遣わされて来たのだ。」こう話しかけられて、わたしは震えながら立ち上がった。
 
ダニエルは「愛されている者」と呼ばれました。これまで幾つもの危機に陥りましたが、その都度助けられたとご紹介しました。ダニエルは神に愛されていたのです。ここで、先に申し上げた、「大切にすること」を思い出しましょう。「愛する」を「大切にする」と読み替えてみることをしてみませんか、という提案でした。ここで当てはめてみると、「神に大切にされている者」と読めます。大切にされたからこそ、命を守られてここまできたのではないでしょうか。
 
日本語本来の「愛」の中には、「かなしい」という感情がありました。いないと想像するだけで寂しいのです。英語だと「I miss you.」という表現があります。「あなたを失う」と訳すべきではありませんね。「あなたがいないと寂しい」という気持ちを表します。あなたを逃したらどんなに寂しい気持ちになるかを想定しているとすれば、「愛」を使う「かなしい」と通ずるものが感じられます。
 
聖書的な根拠はありません。ユダヤ文化の聖書はそんなことを告げていなかったかもしれません。しかし、日本人に与えられたこの感情を、私は大切にしたいと考えています。神にとり、私たち日本人をも愛しているはずですが、それは、日本人がいなくなると寂しいと思うほどに、大切にしてくださっている、と受け止めたいのです。日本人のために、そのような聖書の伝え方をしたということが、聖書を汚し歪めることになるとは思いません。むしろ、神の愛を、実感をもって伝えることができるのではないかと思うのです。
 
私もそうです。そして、あなたもそうです。まず私が、そしてあなたが、この神の愛に、心を震わせることから、出来事は始まるでしょう。キリストが最後まであなたを愛し抜かれたという姿に、じぃんとなることが、そのスタートの条件かもしれません。
 
10:11 彼はこう言った。「愛されている者ダニエルよ、わたしがお前に語ろうとする言葉をよく理解せよ、そして、立ち上がれ。わたしはこうしてお前のところに遣わされて来たのだ。」こう話しかけられて、わたしは震えながら立ち上がった。
 
「立ち上がる」とは、聖書ではしばしば、そこから行動に出ることを意味します。愛されていること、大切にされていることを感じ入ったならば、「立ち上がれ」の命令を聞くのです。それから、自分の思いや求めを優先させるのではなくて、イエスの愛の中にいる自分を確信しながら、誰かを愛すること、大切にすることへと、動き始めるのです。また明日やろう、ではなくて、今日、動くのです。あなたの愛を待つ誰かがいます。あなたに、大切にされなければならない人が、きっといます。もちろんあなたは、それが誰かであることには、もう気づいていることでしょう。
 
父から子へ、子から人へ、つまり私へ、あるいはあなたへ、愛が実現されたくて、うずうずしているような気がしてなりません。

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