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つたえてください

教会の近くに生協があった。それで京都では生協に加入していた。が、福岡では利用店舗が行きやすい場所にはないため、加入していなかった。それが、立ち寄りやすいところに新しくひとつ開店したので、そのオープンセールのときに、ようやく加入した。エフコープという。加入に必要な費用は、直ちに金券で還元された。実質出資金制度ではなくなっているのかと少し驚いた。LINEでつながると、生協商品もプレゼントしてもらえた。
 
賀川豊彦と生活協同組合との関係については、関西に住んでいたせいもあり、よく聞かされていた。また、その妻であるハルさんの物語からも、いろいろなことを知ることができた。もちろん、京都では大学生協には加入していたし、当時は書籍が1割引で買えたので、ずいぶんとお世話になった。
 
いままた地域の生協に加わったことになるが、読み物の冊子が置いてあったので持ち帰った。『つたえてください あしたへ……』というタイトルであり、「聞き書きによる被爆体験証言集28」と説明されている。今年の分だ。これまでにもずいぶんたくさんの号が発行されているようだ。実は図書館にも備えてあることをその後知った。ありがたく読ませて戴いた。証言だから、助かった方の声ではある。亡くなった方々の声を代弁しているものと受け止めたい。決して軽々しく聞き流してはらないはずだと自戒した。
 
小学校の修学旅行で長崎を訪ねた。原爆資料館で見たものは、小学生には衝撃的過ぎた。もちろん広島の話もいろいろ伝わるのだが、福岡に住む私にとっては、長崎の原爆投下が、より自分と距離が近いような気がしていた。
 
爆心地から500mほどのところに、浦上天主堂があった。聖母被昇天の祝日の準備のため、その時司祭と何人かの信徒が教会にいたらしい。もちろん、瞬時に亡くなった。爆心地周辺には、一説には15000人の信徒がいたが、10000人以上が亡くなったともいう。
 
長崎医科大学は、爆心地から700mの距離にあったという。そこで被爆した永井隆博士は、自ら重症を負いながらも、医師として救護活動に懸命に働いたという。被曝のために白血病が分かり、間もなく死線を彷徨ったが、目覚めた後6年近く生きながらえ、執筆活動に勤しむ。
 
すでに20代前半でカトリック信仰をもっていた永井隆博士は、原爆についても自身の信仰があったという。その考え方をけしからんと評する人もいるが、永井博士自身の信仰を他人がとやかく言うことはできないだろう。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」というキリストの問いかけを、それぞれの人が受け止めて、それぞれが何かを神に返せばいい。
 
『つたえてください あしたへ……』の中で、クッと詰まったところがあった。いまのウクライナへの攻撃の映像などを、見ていられない、というのだ。そう、あれを見られないというのが、実際の被爆体験をもった当事者の真実なのだ。いくら私のような者が「寄り添う」というような軽い言葉を叩いたとしても、あの攻撃を目を見張って見ている限り、被爆者の気持ちなど全く分かっていない、ということになるのだ。私のような者が、現実に苦しむ方々を代弁しているような錯覚を起こしてはならないのである。
 
自分だけ安全なところにして、自分はただ世界を俯瞰して見下ろしているかのようにして、なんだかんだと批評する人が、世の中にはいる。否、私もそうだったし、いまもそういうときがあることだろう。だが、たとえそうであっても、「つたえてください」という声を受け止めることくらいは、できるだろう。しなければならない。私は、私たちは、「つたえてください」と呼びかけられているのである。また、「あした」は、ただ何時間か後の「明日」のことではない。未来であり、子どもたちである。また、その未来の青写真を描くために子どもたちに教育をする大人たちでもある。
 
伝えることを諦めてはならない。現に、聖書は何千年と、伝えられてきている。どのようにしてだか、いまとなっては分からないことも多いが、これだけ受け継がれて伝わってきたものがあるというのは、半ば奇蹟のようなものであろう。そこには、伝わってはいないけれども、なんとか伝えたいと労苦した先人たちが必ずいる。命を擲って伝えた人たちがいる。執筆したパウロという人のことはかなり分かっているほうだが、パウロもまたどんなに大変な目に遭いながら伝えていったか、証言している。でもパウロ一人が伝えたのではない。伝えるためには、無数の、無名な「一人ひとり」が必要だった。
 
私が、私たちが、紛れもなくその「一人ひとり」なのではないだろうか。

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