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怖い時代

政治の内容については、事情がすべて分かるわけではない。無知と思い込みから、デマとなることを振り撒いてはいけないと考える。そこで、政治の内容ではなく、形式であるとご理解戴くことにする。
 
兵庫県知事の失職に伴う選挙に関してである。
 
そこに、SNS記事が大きな影響を与えた、という報道や意見が出ている。有権者は、「選挙公報」や「街頭演説」に基づいて投票した、というよりも、ネットの記事や動画によって投票先を決めた、ということのようである。
 
今回の選挙の真実の姿がどうであれ、選挙の基礎が大きな変化を迎えたことを、認識する必要があると考える。公的な公約は、ある意味で単なる建前であるかもしれない。だが、それは公約である。すべての政治的な判断は、その公約を基準になされるべきである。もちろん、街頭演説もそういうものであろう。
 
確かに、それはただの表向きのものであるのかもしれないし、訳を知る人の声や評判というものも、時に重要になるだろう。論敵が指摘する批判点を考慮することは、どうしても必要である。これまでも、そういう噂話に左右されるという問題点が、なかったわけではない。
 
しかし、ネットの噂が出回るスピードは、従来とは比較にならないくらい速い。しかも、嘘の情報であるかどうか、という判断のつかないままに、「◯◯だそうだ」がたちまち広まってゆく。それはやがて「◯◯だ」の断定になってしまう。
 
本人が説得力のある言い方をしたら、それはもう単なる事実となって、出回ってゆく。いわゆる「論破」と自称することが、恰も真実であるかのように思いこんでゆくのと同様である。マウントをとる者に対して、適切に論理を持ち出してそれを否定する声があったとしても、一旦その「権威者」を信奉した群衆は、その批判者に援護射撃をするようになるものである。
 
人類は、ソクラテスやキリストに対して、群衆がそのようにしたことを、よく学んでいたはずである。だが、そもそも人間がそういう性質であるからこそ、ソクラテスやキリストの出来事があったのであり、それは二千年以上経ったとしても、変わるものではない。むしろ、現代は一人ひとりがそれなりの教育を受けているだけに、「自分は正しい」と信じ込む根拠を、自分なりに有っていると自負している怖さがある、とも言える。
 
こうした「群衆」は、ちょっとした世間の風の吹き方で、簡単に向きを変える。投票で、自分一人くらい、と思う向きもあるかもしれないが、「群衆」が皆「自分一人くらい」という意味で、塊になってしまうことを、考えようとはしない。考えようとはしないからこそ、「群衆」の一人と化してしまうのである。つまり、個人一人ひとりが「キャスティングボート」の役割を果たすのであって、社会が「民主主義」という投票制度で決定することになっている限り、世の中は一気に変わり得る、ということだ。
 
「みんな」が反対している時代は、なんとか食い止められているかもしれない。だが、その「みんな」は、何かの拍子に、すっかり賛成に回るかもしれない。否、それが簡単に起こることを、いくら私のような小さな声が叫んでいても誰も信用しなかったが、今回の事例は密かに証明しているとしてよいのではないか。
 
ネットは、そのスピードを助長する。「リテラシー」の必要性が、インターネットが拡大するときに盛んに言われたが、もうこうなると、「リテラシー」などお構いなしに、誰もが感情と自己義認で、そのもつ権利を謳歌する。そのノリが、社会の「正義」となる。
 
何かそれで不都合が生じた場合には、これまた「政治が悪い」とか「マスコミが悪い」とか、誰かの責任にするものである。民主主義は、国民一人ひとりが主権者である、という原則など、頭の中から全く消え失せている。
 
人間の性というものが、決して二千年前より善くなったわけではない。ネットだのAIだのというものは、人間の善性に基づいて利用されるというような前提で動いていることになっているかもしれないが、人間の罪の効果と現実化を加速するためにも、大いに働く道具である。このことの怖さというものに、せめて気づくところから始めなければ、本当に取り返しのつかないことになる。
 
特にこれは、「哲学」の教育のない国では、かけるブレーキが存在しない、という懸念もあるのである。

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