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草木のいのち (創世記1:9-13)

◆水
 
「昨日から始まったドラマ見た?」「見てない」「面白かったよ」「ええ、でも見逃しちゃった。途中から見ても面白くないからなあ」
 
第一回を見逃したために、もう全部見ない、というのはもったいないわけで、また、放送する側にしても、それだけの理由でそれからも見てもらえないのも苦しいわけで、「まだ間に合う」などと銘打って、連続ドラマが始まって後、特別番組が放送されることがあります。
 
途中から参加するのは、なんにしても気が引けるわけです。ですから今日、天地創造の3日目から入るというのは、違和感だらけの企画を覚悟で考えました。有名な「初めに、神は天地を創造された」(1)とか「光あれ」(3)とかをすっ飛ばしてどうするのか、とも思いましたが、敢えてそうします。
 
でも、触れるべきところには触れておきます。それは「水」です。
 
1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
 
不思議です。地は闇でしたが、神の霊が「水の面」を動いていたというのです。これは第一の日ですが、さらにこの水は、第二の日に神はこう命じます。
 
1:6 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
1:7 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
 
この「大空」は神により次に「天」と呼ばれるようになりますが、問題はいまは「水」です。地を満たしている「水」と、別にまた、天の上に「水」が存在すると言っているのです。
 
こうなると、この「水」は、私たちが理解しているH2Oと同一視することができそうにないことが分かります。つまり、古代人が「水」というイメージをもったものが、現代人が思い込んでいる物質的規定とは別の次元で捉えられたものだということを、認める必要があります。
 
古代ギリシアのタレスを思い起こします。イオニアのミレトス学派の祖とされますし、後の編集者によって、哲学の祖だと見なされている人です。万物の始源を「水」であるとしたためです。これは、神話で語られていた世界観を、合理的に初めて説明したという意味で、哲学のはじまりだと理解されていることになります。万物が「水」からできて「水」へと還るなど、どこが合理的なのだ、とお思いの方もあるかもしれません。しかし、このタレスの発想を基に、万物の原理を考察する思想家が次々と現われ、いまなお続く哲学の思想を確実に導いたことは、やはり否定することができないのです。そして、この「水」が、私たちの理解する物質としての水と同じものと思い込んでしまうと、そうした理解を妨げるであろうことも、お分かり戴けるかと思います。
 
水といえば、新約聖書でも、イエスが水の特別な側面について口にしていました。
 
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ4:14)
 
新約聖書の最後のほうでは、黙示録において、命の水について三度言及されます。ひとつだけ挙げます。
 
事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。(黙示録21:6)
 
生命は水なしではありえなかったことが現代科学では常識とされますが、古代においても、水が命であることを、人々は見抜いていたと言えるでしょう。世界の現象の中の、地と天上とに分かれた水もまた、命を支えるものであるということは、想像に難くありません。
 
◆陸
 
さて、この地上の水ですが、どうやら最初は全地が水に覆われていたかのようです。それが、水だけのところができ、乾いた陸が生じることが説明されます。
 
1:9 神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。
 
水が集まるのです。私たちも、川が湖や海に流れ込む様を知っています。水が水たるに相応しい場所にまとまり、水のない場所、すなわち「陸」ができることになります。
 
1:10 神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。
 
「地」は私たちの言葉で言えば「陸」でよいのでしょう。こうして陸と海とが区別される世界が現われ、私たちにも考えやすい世界が成立したことになります。天地創造の第三の日は、これで一区切りとなり、これまでであればここで一日が終わっても差し支えない形であったといえます。神が「良しとされた」は、第一の日に続いて二度目のフレーズです。
 
しかし、第三の日は、これで終わりではありませんでした。そしてもうひとつの「良しとされた」が控えていることになります。
 
◆草
 
1:11 神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。
1:12 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
 
後半の内容は、これです。神が言った。すると、そのようになった。そして神は見て、良しとされた。このパターンが、天地創造の記述の成り立ちであると言えます。従って、この一見くどいような文の流れも、お決まりのバターンに収められているということで辛抱しましょう。
 
ここには、地に生えるものが二種類に分けて述べられています。要するに植物のことなのですが、これを創世記の記者は「草」と「果樹」とに分けています。これをひとつずつ、まずは「草」に注目することにします。
 
それは、私たちの感覚とはやはり違うかもしれないという構え方でいましょう。この「草」は、「種を持つ」ものだとされています。「実」をもつ果樹とは区別されます。説明はこれだけです。
 
草というと、思い出すのは、やはり第一ペトロ書ではないでしょうか。
 
1:24 「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。
1:25 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。
 
草花に比べられるとは、主の言葉もけっこう弱そうなイメージを与えかねないものですが、これは一時的なものと永遠であるものとの対比であるとしておきましょう。神の言葉は変らない、これは逞しい、頼りになる宣言だと私は感じます。朝三暮四ほどではないにせよ、私たちの世の中の言葉は、その場限りのものが実に多いものです。人の言葉も、つい先ほど言っていたことが、舌の根も乾かぬうちに、態度をころりと変えて繰り出されてきます。偉そうに真理を述べているかのようにしてネットに飛び交う言葉もありますが、その都度矛盾するようなことばかり吐いていることに、本人だけが気づいていないというような様子も見受けられます。
 
これは、旧約聖書のイザヤ書という預言者の言葉を綴ったものにあるものを引用していると言われます。
 
40:6 肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。
40:7 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。
40:8 草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
 
このように、草はあまりにはかないものです。花でも一年草などという分類がありますが、そう間もないうちに枯れてしまうというのが、草の性質です。草の命は実に短いものだと言えます。これは、人間の寿命のことに当てはめることができるかもしれません。
 
また、木のようにしっかりと立つこともままならぬことがあります。洗礼者ヨハネについてイエスが話したとき、「風にそよぐ葦」(マタイ11:7)でも見に行ったのか、と群衆に問いかける場面がありました。吹く風により態度を如何様にも変え、確かな立場や姿勢をもたない人間の姿を揶揄したのかもしれません。私たち人間は、はかないのみならず、精神的にも、薄弱なものであることを思い知らされます。
 
しかし、イエスはまた、そのような人間の弱さを痛めつけることは望んでいませんでした。「彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない」(マタイ12:20)と言っています。これも、イザヤ書に出典が見出されます。「傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする」(42:3)は、主の霊を置く者について言われていることですが、イエス自身のことだと見て差し支えないものと思われます。
 
この弱い葦についての聖書の言及を踏まえて、17世紀のフランスの哲学者であり信仰者であり、数学や物理学においても超一流の学者であった、ブレーズ・パスカルが記した有名な言葉があります。
 
「人間は一本の葦にすぎない。自然のなかでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である」(『パンセ』L200,B347)
 
宇宙の中でちっぽけな人間存在ではあるが、その人間のほうが、宇宙全体を思考することができる、この思考のうちに、人間の尊厳があるのだ、と言うのでした。
 
◆樹
 
これもまた、草と同じように種を有します。ただ、その種を収める実がなるというところが、説明上の違いです。しかしやはり、これは木を意味し、草とは異なる強さを弁えていることは確実でしょう。そして、その「実」だけに注目したとしても、これは聖書ではかなり味わいのある概念だと言えると思います。
 
なんと言っても、「実を結ぶ」というのが、最も好ましいこととして挙げられます。
 
霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。(ガラテヤ5:22-23)
 
キリストを信じた者は、こうしたよい思い、性質を身に帯びるようになるのだ、とパウロが励ましているわけです。
 
また、「実」はそもそも聖書の始まりと終わりにおいて中心的な役割を果たしたものでもあります。創世記で、できたての人に対して神が最初に命じたのが、このことでした。
 
2:16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
 
この禁は、この人の助け手たる女により間もなく破られてしまいます。
 
3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
 
この結果、二人は人生の苦痛を背負わされ、エデンの園から追い出されます。人類史はここに始まったというのが、聖書の物語ることでした。それが聖書の最後の最後、新約の結びの黙示録において、このモチーフが再び活かされることになります。天から神の都エルサレムが降りてきます。
 
22:1 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。
22:2 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。
 
果たして、創世記の「善悪の知識の木」と、黙示録の「命の木」との関係や如何に、と古来多くの人が考察を進めてきました。その背景には、黙示録に三度ほど繰り返されるこの「命の木」が、実は創世記にも顔を出しているからです。二人をエデンの園から追放する直前に、神がこう呟きます。
 
3:22 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
 
黙示録の記者は、当然旧約聖書を踏まえて書いている人ですから、創世記のこの点を知らないはずがありません。審判と世の終わり、そして永遠の神の国の実現の場において、聖書の物語の始まりにおいて謎のように置かれていた「命の木」が、きちんと回収されて聖書の幕を閉じるということを、当然意識していたはずです。
 
果樹の実りというときに、ともすれば、私たちの行動の良し悪し程度の話で結ばれかねないところでしたが、聖書全体の大きなスケールで捉えられた命への眼差しが与えられることを私たちは知りました。天地創造の完成において造られた人間は、やがてそこから追放されて死という運命の中に置かれることとなりましたが、その死から、命への道が神により用意されるという筋道が、聖書全体の視野の中に映る、実りの物語だと見ることができたのでした。
 
果樹ではありませんが、実を結ぶことについて、最後にもう一つだけ触れておくべき点があります。いろいろな土地に蒔かれた種のうち、良い地に蒔かれたもののうち、「ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ」(マルコ4:20)というのは、種を蒔いたときの収穫の話でしたが、これは木のことであるというよりも、麦のようなものであるように思われます。そして麦の実りという点では、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)が印象的です。イエスが十字架で死ぬことにより、復活を経て次の世界がもたらされるというような図式が反映されていると思われますが、ここにも確かに、死を経た上での命への道に言及されていたように感じます。
 
◆人
 
果樹は実りもありますが、それでも永遠のものではありません。草よりも木の方が、まだ堂々と立ちますが、気をつけなければならない点があります。洗礼者ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が洗礼を受けに来たのを忘れていたので見て、大いに吠えます。そのとき、マタイ(3:10)とルカ(3:9)の福音書ではこのような警告も与えていました。
 
斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
 
また、イエスの口から、ファリサイ派の人々について「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう」(マタイ15:13)と言いましたし、実のならないいちじくの木をイエスが呪ったことで、いちじくの木が「根元から枯れて」(マルコ11:20)こともありました。
 
ルカによる福音書の中では、実のならないいちじくの木を切り倒すように言われた園丁が、肥やしを与えるのであと一年待ってほしいと願う話がありました。しかし、来年もし実がならなかったら、「切り倒してください」(13:9)と、やはり厳しい結末を予感させる予告がありました。その他、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(マタイ7:19)とまで書かれている場面があります。
 
こうした話を教会の講壇から聞くと、怯えてしまいそうです。クリスチャンとして生活して、来年実を結ばなかったら、切り倒されてしまうのか、と。自分の悪いところが一年で直るのか。あるいは誰かを教会や救いに導くことが一年の内でできるのか。そんなことを思うと、震えるような気がするものです。なかなか辛い気持ちになるものです。
 
どうして辛くなるのでしょうか。それは、この木の姿に、自分を重ねたからです。自分もまた、草木のようなはかない命の者である、だから神の創造した草木になぞらえて見ることは当然ありうることである、その木が、実りなき場合には神に棄てられるということが、こうもはっきり書いてあると、自分はとてもそんな立派な結果を生むような生活をしているわけではない。そう思って恐れてしまうのです。
 
いえ、近年は、このようなことを申し上げても、それがどうしたの、という顔をして聞いている信徒がいます。自分とは関係がない、という心でしか聖書を聞くことができない信徒は気の毒です。それは明らかに、聖書の聞き方に問題があるからです。信仰は人それぞれですが、聖書という神からの呼びかけに心を閉ざしているとなると、神とのつながりを自ら断っていることとなのです。
 
そこで、皆さまは、この実りなき木の処分について、健全な怯えをお感じになっている、という前提でお話をもう少しだけ続けます。
 
◆命
 
しかも、実りをなす果樹ならず、草の立場になってみようと思います。私は自分で根を張り立派にそびえる樹木ほどの価値はありません。いつ滅んでも仕方がないような、力のない草です。実りをもたらすような性質さえありません。もしよければ、小さな花だけは咲かせてもらえたら何より、という程度の草になりましょう。その際、慰めになるのは、マタイによる福音書の山上の説教、その中程です。
 
6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
 
「思い悩むな」(6:25)とした上で、「命は食べ物よりも大切」であるとしながら、イエスは聞く者の目を、まず空の鳥に向けさせます。あれが食べ物で悩んでいるだろうか、と考えさせるのです。次に、人々の目を野の花に向けさせます。衣服がどうのこうのと人が悩む背後で、野の花は美しいではないか、と言うのです。
 
あなたは十分美しいではないか。生きているというのは、美しいということではないか。私にはそのように聞こえてきました。
 
天地創造の第三の日、すでに分かれていた水のうち、地上の水がひとつに集まっていき、乾いたところができました。乾いたところには、命の水がないように見えましたが、神の言葉により、そこから草木が芽生えました。それまでの神の創造は、「あれ」というだけの神の言葉の実現でしたが、このとき「芽生える」という形で創造が行われました。自分から「芽生える」のです。そうです、それこそが「命」というものです。この第三の日、初めて「命」あるものが創造されたのです。そして、この「命」もまた、「良し」とされたのでした。まさにこれは、命の記念日です。
 
やがて、動物を経て、最後に人が想像されます。次の章になりますが、このとき神は、人の「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(2:7)と記されています。「息」というのは皆さんご存じの方も多いと思われますが、「霊」をも意味することがある語です。はじめに水の面を漂っていた神の霊が、人の中に吹き入れられ、そして命ある者となったというのです。
 
乾いた地にこそ、初めて草木という命あるものが与えられました。私たちは別の意味での「渇き」をもっていることでしょう。自分にはこれが足りない、これが邪魔だ、神に喜ばれるような存在になりたい、神の救いを求めている、どんなことでもよいのですが、神との関係の中にある「渇き」があることでしょう。それでよいのです。乾いた地にこそ、命が与えられるからです。そして、生きていることそのものが美しいのだ、という眼差しで、神がか弱き草をさえ見つめてくださることを知っているのです。
 
あなたは乾いてよいのです。生きているならば、美しいのです。どんな馬の骨か分からないような人々からは見えていなくても、神の目は、あなたの美しさをもう認めてくださっています。草木の命の記念日を見つめながら、私たちは神の視線をひしひしと感じることができたなら、このひとときに、かけがえのない意義があったものだとうれしく思います。

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