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怖い時代の予感
新しい制度というのは、人を不安にさせる。「マイナンバー」という制度に対して違和感を覚える気持ちは理解できる。いま、マイナンバーの是非を問おうとするつもりはない。結論から言うと、少し前に「怖い時代」というタイトルを掲げて考えたことと同じ構図の話をすることになる。
特にそのカード形態、すなわち「マイナンバーカード」については、強い反論があるようだ。うまく使えない、という苦情には、機能的な問題が多い。私も最初、分からなかった。スマートフォンでの読み取りは、ケースから出して密着しなければできないのだが、出さずに当てて、できないともがいていた。
導入して間もなくは、メカニカルなミスもあったようだ。登録側の手違いもあり得ることだったが、マスコミは何かと大袈裟になるべく報道したように見受けられる。制度に無批判であることは推奨しないが、最初から完璧を求めて、ミスが生じたからもうこれはやめろ、という結論を出すのは、必ずしも適切ではない。交通事故が起こったから車を廃止せよ、という論理には、恐らく誰も賛同しないだろう。
いままた特に、保険証とリンクするという形が物議を醸している。問題が指摘されれば、それなりに解決策が出されているのだが、一度けしからんと思った人の中には、一切そうした改善策には耳を貸さない人もいる。確かに宣伝もうまいとは思えないが、利用している人の殆どは、基本的に問題なく使っている、というのは確かである。
コンピュータ処理にかけると、確かに膨大な事務が効率よく運用される。ルーチンワークとも言えるようなことを、一つひとつ役所の人間が対面で対応できるような人口と社会を、すでに日本は超えてしまっている。住民票ひとつ受け取るのに、半日行列を待たねばならない、というような事態に遭わずに済むのは、役所作業の電算化によると言ってよいだろう。
但し、懸念があるのは確かである。ヨーロッパでは特に、かつてのドイツの独裁政党が、特定の民族を絶滅されようとして、社会的な登録を利用したことに対する反省は必要であった。だが、昨今、新型コロナウイルス感染症に対するワクチン接種の際、電子処理が大々的に可能だった国が、国民の命を守る動きが非常に素早くとれたのは、記憶に新しい。もちろん、ここでワクチンの是非を話題としている点はご理解戴きたい。
さて、ここからである。マスコミの一部が、マイナンバーカードはけしからん、と一方的にまくしたてることがあった。また、知識人と見られる人の中に、あるいはインフルエンサーと呼ばれるような人の中に、マイナンバーカードを否定し、「論破」したと言っているようなこともあった。
思想そのものは自由である。ただ、虚偽を偏見から広めるのであれば、それはよろしくないが、今この問題で真実とか虚偽とかいう点で話をしているわけではない。事態についてよく知らない人々、あるいは語弊があるが、自分で物事をよく考えようとしない人々の中には、「みんなが言っているから」という理由だけで、すっかり同調することがある。この点が、問題なのだ。その口からは、確かに理由や根拠のようなものが語られる。それが拡散される。但しそのソースは、知識人なりインフルエンサーなりが語ったことそのものを繰り返すばかり、ということが多い。そして、それが自分の考えだ、と思いこむのが通例である。
私たちが、自分の考えだ、という自信をもつ場合も、実のところ、誰かの考えをそのまま用いていることが、実に多いのである。
SNSで拡散する情報が、ものすごく多く広まっているとする。だが、そのソースは限られた情報源であり、極端に言うと、たった一人の発言から、ということもある。もう幾度か繰り返したので詳述はしないが、ある牧師が、説教の中で、あることの語源が聖書のこれこれである、とクイズ形式で紹介したことがあった。実はこうなんですよ、と得意気に話したのだが、聞いた瞬間私はぞっとした。明らかに嘘である。デマである。ちょっと学問の歴史を学んだ人は、本当の語源を知っているはずだが、その牧師はそれを調べてはいなかった。
礼拝後直ちに訂正を勧めたが、その後訂正することはなかった。虚偽を広めただけで終わった。調べてみると、インターネットの世界で、ある一つの発言を見つけた。かの嘘である。そしてそれをそのまま鵜呑みにして、明らかにそのソースを基にして、こうなんだってよ、と広めていることも分かった。その牧師は、それを見たのである。そして、複数の発言があるから、それを本当だ、と思いこんでしまったのである。
このようなことは、幾らでも起こり得ることであるはずだ。否、現にいくらでも起こっているに違いない。時折、こうした嘘が広まっているから気をつけよ、という発言をSNSでも見かける。事柄によっては、真実かそうでないか、判断がつきかねることもあるが、中には、なんでこんなデタラメを人々が信じているのか、と不思議に思うこともある。不思議ならまだいい。私はやはり、それは怖いことだと思うのだ。
デタラメであっても、それを信じている人々が増えれば、それが民意となる。民意は正しい。それを社会実現することになる。それが民主主義だ。こうして、特定の民族は虐殺された。殺人兵器も「正しく」使われる。考えてみれば、「いじめ」もそうやって正義だからなされたのだ。いじめる側が、「これは悪いことだ」と確信していじめているようなことはない。いや、そう感じる人も、「みんな」がすることだからそれに従っていじめる側に立つ、というのが実情だろうか。
どうであれ、「みんな」がそう言うから、自分もその意見に賛成する、というのがごく自然な考え方となってしまっていること、そしてそのことについて自覚的でないこと、そこに恐ろしさを覚える。もちろん、私自身も、その波の中に呑まれているかもしれない、という可能性を、常に忘れずにいなければならない。
こんなことを考えているとき読んでいた本が、同じ警告を発していた。『生きることは頼ること』(戸谷洋志・講談社現代新書)である。特に、ハンナ・アーレントの指摘を紹介しながら述べているところが、厳しい論調となっていた。もちろん、アーレントの言及は、ナチスドイツの時代の話である。それはナチス政府だけの責任ではなく、ドイツ人一般が顧みなければならないことだという。国民は、なにも残虐なことをしようという悪意から、たとえば密告などをしたわけではない。そうではなく、「人々が何も考えないことによって」こうした事態は引き起こされたのだ、と強調するのであった。何も考えないことにより、漠然と、それは正しいことだ、と思うようになり、取り返しのつかないことさえ平然とするようになっていたのである。
結局、どこまでも、「これが正しい」という声が欲しい心理がそこにある。何かの権威が欲しいのである。「おまえは正しい」と言ってくれる存在が欲しいのであり、自分は「正しい」者でありたいのである。だが、「哲学」というものは、これこれの考えが正しい、という結論を嫌う。「哲学」を教育しない国は、「これが正しい」を追いかける精神を増殖しかねない。先の「怖い時代」と、全く同じことを言うしかない。