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相手を尊重すること

ローマ14:1-12 
 
クリスチャンは◯◯をしてはいけないのでしょぅか。こんな質問をするからには、かなり素直な信徒であるかもしれません。真面目だから、気になるのです。もちろん聖書にはっきりと書いていることなら、わざわざ訊かないのでしょうが、そこまで明確でないとき、つまり解釈の問題となると、答える指導者によって回答が違うことは十分あり得ます。
 
パウロにも、常々こうした質問があったと思われます。そしてよくある問いという弁えがあったからこそ、ローマ教会へも挨拶代わりに知らせておくことにした、とも言えるでしょう。野菜しか食べない、今でいうベジタリアン、あるいはビーガンというところでしょうか。肉食を断つ主義ですが、特に偶像に献げた肉を気にしていた可能性があります。
 
パウロは、その考え方そのものを拒むのはどうか、と考えているようです。この人なりに神を信じて神を思いつつ思案した結果の判断なのです。その論理自体を否定することを軽々しくしてはならないとするのです。もちろん、逆も然りです。肉食肯定派のことを、単純に否定したり人格をなじったりすることは慎まねばなりません。
 
もし議論になったときも、その弱い側を神は支えるだろう、と勇気づける言い方も見られます。ざっくりいえば、「論破」というつまらない愚かなものを退けている、とも言えるでしょう。この時代から見抜かれていたことをいまだにマウントを取るために使う人間がいるとは、情けないものです。それを面白がる人間も、全く進歩が見られません。
 
もうひとつ、日取りの吉凶を占うような考え方も例示されています。よくある質問だったのかもしれません。あるいは、ローマの文化を気にするケースもあったことでしょう。私たちも、方違えこそしないにしても、大安や仏滅を口にし、星占いを気にかけるなど、まるで変わりません。「おのおの自分の考えに確信を持つべきです」が結論です。
 
「主のために」であるなら、それも一つの信仰の形であってよいのです。「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のもの」なのです。この構造を崩すことはできません。物事に対する判断は自由ですが、ならば相手の自由を否定することも越権になります。考えた末の論理なら、まずは尊重するべきです。私たちは「神の裁きの前に立つ」身です。
 
ところで、旧約の律法をどこまで基準とするべきか、それは現実的に難しい問題です。律法を完成したり乗り越えたりしたとき、イエスも、変更や徹底を述べました。かといって、律法はすべて無視してよい、という開き直りが勧められるわけでもありません。「愛」という言葉こそ見られませんが、私たちは愛とは何か、深く胸に刻もうではありませんか。

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