『説教集 先立ちたもうキリスト』(小川治郎・日本基督教団 代田教会・1974年)
受難週のことだった。リモートで、祈りの会が開かれ、信徒がリードして短くお話をしてくれた。そのとき、この本の中のある説教について触れることがあった。それで私は感心をもち、探してみると、ウェブサイトに見つかった。ひとつの教会が発行所となっている。珍しいと思うが、半世紀前には時折あったのだろうか。その時代の価格としては高価であるが、発行部数などの関係であろうか。信徒のための製本ということなのかもしれない。
1900年生まれの説教者。経歴を見ると、植村正久や高倉徳太郎の指導を受けたというから、歴史の重みを感じる。代田教会の牧師を長年務めたことで、その功労のための出版かと思ったら、日曜礼拝に出席しづらい人のための録音テープをひとつ本にしてみたらという話からできたようである。書物という形に遺したのは、よかったと思う。こうして縁のない者にもそのメッセージが伝わったのであるから。
調べてみると、『新約聖書略解』の編集者の一人でもあった。お世話になった。
本書は布張りの表紙で、しかもかなりしっかりした函に入っている。見事な上製本である。それで500頁近くあるのだから、価格もさるものであるだろう。他の特徴は、教会での毎週の主日礼拝にきちんと沿う形で編集されているということだろう。編集された1974年の前年73年を軸としながらも、時折過去に遡った時の主日礼拝の説教が集められている。
教会では待降節が暦の始まりと見なされるために、最初は待降節の第一主日・第二主日、と始まり、降誕祭がいわゆるクリスマス礼拝となる。その後は、降誕後第一主日、第二主日、と続くと、次の区切りは四旬節、さらに棕絽の主日、復活祭、というふうに、いわゆる教会暦をカウントしながら、淡々と説教が続けられていく。
当時教会に直に行けないと、リアルにはやはり録音テープが限度だったことだろうが、それさえも難しい場合には、本書を毎週開けば、その都度の福音を味わうことができるだろう。毎年同じメッセージとなるが、決して厭きてくることはないであろう。1年単位の黙想集を毎年繰り返し読んでも、恵みはたっぷりと戴けるのであるから。
さて、その説教は、決して長くはなく、しかし短すぎることもなく、読むのにも適した分量であるが、口調がよく書き直されており、元々語られた言葉であるものが、適切に読むための文章に整えられている。たいへん読みやすい。
説教は、短い聖句を掲げてから始まる。ペリコーペと呼ばれる、一連のまとまりのある箇所から語られるが、印象としてはコンパクトである。その箇所は読者自身が開くべきであろう。
説教にはいくつかのスタイルで分類されると言われるが、本説教は、聖書解説を目的とはしていないように思われる。説教者が示されたことをなんとか伝えようとして、聖書箇所を比較的自由に取り扱う。掲げられた箇所の他の句も用いるのは当然としても、概してひとつのテーマに沿ってひとつのことを伝えようと語るように見受けられる。主題説教と呼んでもよいのだろうか。しかし恣意的にというよりは、説教者が聖書から示されたことを、ひとつの伝えるべきテーマとして掲げ、改めて聖書を開き直しているような気もする。
そこで、読んでいくと、かなり説教者独自の「考え」が表に出てくるような印象を受ける。聖書の言葉そのものが伝えようとしていることというよりも、聖書という土地を縦横に歩きながら、見た景色を私たちに提供してくれているように感じるのである。それでいて、人間としての自身の体験や見聞を報告しようということは少なく、むしろどの頁にも、イエス・キリストの足跡を覚えるような歩き方をしているような気がしてならない。なんとかその後を辿りたいという、説教者の願いのようなものが伝わってくるのである。
時には、聖書に沿うというよりも、説教者自身の信仰の道筋に従い、自由に解釈しているのかしら、と思うところもあったが、それが説教というものだろう。人畜無害な粗筋だけを辿るくらいのことは、いまはAIで簡単にできるようになった。しかし、神と差し向かいになり、そこから何か大切なものを受けようと求め、自分と神との出会いの場で自分に示されたものを、自分の中で噛み砕いてそこから流れ出るものを言葉にしようとするならば、それは命の説教となるであろう。
私が考える文章だと、非常に回りくどく、冗舌になりがちである。聖書とは全然関係がないところで時間を使いすぎるのである。それはそれで、聴く方々に、心の引き出しを整理してもらうためという目的はあるのだが、もっとストレートに、どんな心の人にもズバリと斬り込むことができるような聖書の語り方ができたらよいのだが、というように考えることもある。本説教は、その意味ではシンプルである。端的に語りかけ、聴く者の心を聖書のフィールドにあっという間に連れて行ってしまう。
クリスマスだけとか、イースターだけとかいうように偏らず、一年の流れに沿って満遍なく綴られた説教集である。様々なテーマで、福音を知るうえで必要なことが滞りなく語られていると言える。さすがに私も、一日にひとつかふたつ程度の説教を読みながら、1ヶ月ばかりかかって読み上げるようにしたが、これはもしかすると、いまなお毎週ひとつずつ、味わって受けていくべき神からのプレゼントではないか、というようにも思える。いまとなっては当時の旧い仮名遣いや表現も見られるが、概ね古さというものは感じない。人の心は、半世紀程度で大きく変わるものではないだろう。聖書にしても、二千年前のものがいまここで生き生きと感じられるような文書として、私たちを活かし続けているのである。
よいものを手に入れることができてありがたい。そして私にしては珍しく、本書には一切ラインを含め、書き込みをしなかった。このきれいなままに、いつか誰かにお渡しできたらよい、と考えたからだ。それまでは、また開いて恵みを受けることにしようかと思う。