『知られざる懸け橋』(黒瀬悦成・朝日ソノラマ)
1994年11月6日午後7時。本書はここから始まる。ソウル特別市の永世(ヨンセ)教会は、日曜日の夜にも拘らず人でいっぱいだった。ある人物の60周忌の追悼礼拝が行われたのである。
韓国(といまの立場からここでは呼ぶ)において、当時の日本人が偲ばれるというのは尋常ではない。日韓関係、というよりも、日本が一方的に占領していた時代であり、日本人に対する印象が、韓国側から長きにわたって悪かった、あるいはいまでもそうだ、というのは、明らかである。事実、どうして日本人を偲ぶのか、という反対の声も一部であり、物議を醸したらしいのであるが、しかし多くの人の熱意が、この日本人を慕うイベントを成し遂げたのだ。
その名は、枡富安左衛門。1880年、門司の生まれ。農場経営を韓国で行う。だがむしろそれはキリスト教伝道のためであったとさえ言えるものであって、韓国においては教育事業を展開したという。
この人のことを知ったのは、加藤常昭先生の説教の中であった。信濃町教会について触れたとき、そこに偉大な先人がいたというのである。本書は、その人のことを調べ、伝記のようにまとめたものである。最後に説教がいくらか載っているが、それは枡富氏の信仰を伝えるものとしての資料のようなものであり、また、その死後の出来事なども綴っている。
国内事情もあって、1905年に韓国で農場経営を始まる。大きな仕事をしたらしいが、現地の人々は、こうした日本人を必ずしも好意的に考えていなかったかもしれない。それでも、彼の誠意は人々に伝わってゆく。
そもそも信仰は、妻の照子さんを通じて与えられた。照子さんは信仰をもっていた。安左衛門との結婚話については、強引に迫られた経緯があるようだが、照子はそれを受け容れる。しかし、教会はよしとしなかった。照子さんは、夫を信仰者にする、という信仰を以て結婚する。教会にも全く興味がなく、てんで脈もなかった安左衛門だったが、これも妻の信仰と神の業とでもいうべきか、安左衛門は植村正久から洗礼を受けるに至る。
そのため、農場経営での収入は、むしろ伝道のために用いるようになる。信仰を始めたら、徹底する性格でもあったらしいが、それ以後の一途な生活と生き方が、本書にはたっぷりと描かれる。これは、私が読んでも自分が恥ずかしくならざるをえなかった。
伝道といっても、ただキリスト教を宣伝するだけではない。教育が必要だと考えた。そのためには、韓国人の教育者が育たなければならない。戦後、韓国の学校となってしまったために、戦後なかなか気づかれなかったそうだが、教え子や関係者の慕う心が優り、あの60周忌の追悼礼拝へと実を結んだのだった。
その姿勢は、日本人として韓国を利用しよう、という一般的な動向とは異なっていた。そのことも、韓国側から愛された背景である。
信仰雑誌も発刊し、植村正久や高倉徳太郎らも文を寄せた。そして高倉徳太郎が設立したとされる信濃町教会にとっても、その背後にこの枡富安左衛門がいたという。
先に、追悼礼拝が開かれた、と述べた。それだけだと、キリスト者しか関わっていないかのように聞こえるかもしれない。しかし、社会的な業績も認められ、「韓国の恩人」とまで呼ばれ、それを韓国人への愛だと称えたという。そのため、金泳三大統領時、韓国政府が国民勲章牡丹章に贈られている。
読んでいく上で、「なにもそこまで」と思うような場面もあった。バカに近いくらい、健気で真っ直ぐだ、と感じたこともある。そう、その一途な信仰の故である。真心は届いたのである。私も恥ずかしいことに、少しも存じ上げることがなく、また私自身がゴミのようにしか思えなくなってくるほど、その献げきる人生に、感動した。こんな一粒の麦があって、隣国との懸け橋になっていたのだ、ということを。著者は、題名してありきたりの言葉はつまらないかもしれないが、それでもこの「懸け橋」という言葉がこんなに適した場面はないだろう、と考えたようである。
著者自身は、信仰で著者に結ばれて本書を執筆した、というわけではないようである。いまはなき朝日ソノラマからの出版であるが、この朝日新聞との関係があった会社から、讀賣・産経とわたりあるいた編集委員が、よくぞこうした信仰の本を出したものだ、と思うが、事情はもちろん私は何も知らない。ただ、ジャーナリスティックな手際の良さのため、読みやすい記事となっていたと思う。信仰についても深い理解があるかどうか見えてこないが、もし信仰者でないのであれば、それなりに信仰の姿勢を描いてくれたのではないか、と感じた。つまり、キリスト教会でこれを共に読むなどして、良い刺激を受けるとよいのではないか、ということである。
今回図書館にあったために借りて読んだが、できれば手に入れて愛読書のひとつにしたい、と思っている。