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日々のコミックス始める

仕事から帰り、軽い食事をする。炭水化物は極力避けたもの。日記をまとめ、メールの整理をする。原稿になる文章を認めもする。あとは、本を読む。一日に十冊弱の本を開き、ちびちびと読み進めているが、そのうちの二冊は、この就寝前の時間に読む。しばしば説教集をこのために用意している。いまは、大木英夫先生のローマ書と、加藤常昭先生のマルコ伝からの説教集である。
 
と、これで一日が終わるのがこれまでだったが、最近、さらに寝る前に、もうひとつ読むことにしている。コミックスである。せっかく聖書のメッセージを読んだので、それで眠ればよいではないか、と批判されそうだが、ふと思い立ち、所有しているマンガの本を、最後に読む習慣をもつようになったのだ。
 
実はそうしたコミックスを、若い頃からそれなりに集めているわけだが、全く読んだことがないままに並んでいるものもあるからだ。普通の文字の本に比べると、マンガ本は、私にとっては実は読むのが面倒なのである。不思議なことだ。どう考えてもマンガの方が気軽であるように思われるだろう。だが、私にはそうなのだ。
 
中高生の頃は、定期試験のために午後の時間がたっぷりとれる日は、無性にマンガが読みたくなった。コレクションのひとつの話を全巻制覇、などという偉業も達成していた。が、その後はなかなかダメである。難しい本だと、文字のすべてを把握できるわけではないので、案外エネルギーはそう消費しないのだが、マンガは画面の隅々まで、言葉の隅々まで流れ込んでくるから、実は私にはエネルギーの消費が激しいのである。
 
近年は、全巻セットの古書が、探せば安く入手できることがある。それで読みたいと思って格安で購入したものもあるのだが、実は手つかず、というものもあったのだ。あるいは、以前読んでとても気に入っているのだが、もう大人になって読み返さなくなったものもある。良い作品だったなあ、と思っても、長いこと触れず、あの話はもう分かりきったものになった、と思いこんでいる場合がある。いまの時期に読み直したら、良い作品なら、また新たな発見や読み方というものが可能なはずだ。『ブラック・ジャック』などは何度読んだか知れないのに、いまならまた違う観点や気づきがもてるかもしれない。
 
先般は、『四月は君の嘘』と『さよならミニスカート』と立て続けに読んだ。後者は現在も連載継続中であるが、しばらくストップしていたのが、最近数年ぶりに単行本が発売されたものだ。最初から改めてこれを見ると、『推しの子』はこれに着想を得たのではないか、と思われるフシがあるように感じた。テーマは違うが、芸能界のアイドルと暴力という根柢のモチーフが同じなのだ。しかし、これがあの乙女チックの『りぼん』の連載だとは驚きである。連載当初から社会現象にもなった。
 
『りぼん』に対する思い入れも私はいろいろあるが、いまは触れないでおこう。今回は、事のあらましをお話しするだけにする。マンガも中には、文学としても深い味わいをすることができる、印象的な言葉がたくさんある。ただ画や文字の大きさだけではなく、そうした言葉に気づくというのは、文学作品の中で気に留る言葉と、本質的に違いはないような気がする。
 
たとえばいま、Eテレでレギュラーになった、アニメの「オチビサン」があるが、昨日、心に留った言葉があった。心に留めてもらいたい、と産み出された言葉だろうとは思うが、このようなものだった。海辺で波が寄せるところに、足をつけて立っている風景。オチビサンと仲間たちは、ただじっと立っている。そこに軽く波が寄せては引く。そこで言葉が流れる。
 
自分が後退してるようだったり、周囲が進んで行くように感じたとしても、ぼくらがいる場所は、実際は変わらないのさ。(オチビサン11)
 
「たり」の使い方が言葉として不適切だが、指摘している内容は、なかなか味わい深い。

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