『証し 日本のキリスト者』(最相葉月・KADOKAWA)
よくぞ作ってくれた。よくぞ聞き出してくれた。日本中を歩き、しかもコロナ禍にさしかかる中で人の声を集めた。信仰とは何か。著者は知りたかった。理論でなく、人の口から直接聞きたいと思った。著者は、以前の言葉でいえばルポライターであろうか。ジャーナリストでもあるだろうが、政治的な方面ではなく、文化的精神的な問題に挑んでゆく。
ここでは、キリスト教信徒に的を絞った。「信仰」はいろいろな宗教があるだろう。だが今回はキリスト教に絞った。分散しないでよかったと思う。ひとつの穴を徹底的に掘っていけば、水が出てくるかもしれない。私は、出たと思う。
10年の構想をもち、取材は6年を要した。そして、神との何らかの交わり、神を知る体験、そうしたものをキリスト教世界では「証し」と言うが、本書では、冒頭に掲げてあるとおり、「「証し」とは、キリスト者が神からいただいた恵みを言葉や行動を通して人に伝えること。証、証言ともいう。」という定義で始まっている。クリスチャンの中には、本書はそんなものばかりではない、と不満な人もいるらしいが、私は肯定する。神体験である限り、証しである。
中には、教職者も多い。改めて驚くが、神体験というよりは、自分の考えだけで推し進めて職業としてのそれに就いている人が少なからずいる。懸念するのは、その人が何を語るか、である。たとえ入口では自分本位の形で信仰に入ったとしても、その後語る中で変えられていったとあれば、それはそれで素晴らしい。人の心を生かす説教を語るような存在に変えられていくならば、職を全うすることができるであろう。その人の説教を聞いているわけではないので、私はとやかく言うべきではない。
しかしここに挙げられている「証し」は、135人。書店で見ると、千頁を超える量となるために、百科事典かと見まごうほどである。私はこれを買う勇気がなかった。本で潰れそうな私の部屋に、この大きさはダメージが大きすぎた。そこで、こうした悩みをもつ者への福音というものがあって、電子書籍だと、実質体積ゼロなのである。電車の中で日々読み続けて2カ月、一日平均2人ずつくらいで読み尽くした。これくらいがよいペースなのではないか、という気がする。
毎日、いろいろな人に会えるような気がして、楽しかった。しかし著者によると、1人へのインタビューそのものが3時間はかかるということだ。しかも、そこに至るまでの苦労はただものではない。そのため、毎週必ずどこかの教会の礼拝に出るという生活を何年も続けたというのだ。すると、説教を聞く耳も肥えるだろうし、聖書も学んでいくことができるに違いない。
宗派も、カトリックとプロテスタントのみならず、無教会もあるほか、思いのほか正教会の人が多い。これは私にとり、うれしいことだった。案外正教会の人の「証し」を聞く機会がないのだ。
しかも、こうした「証し」は、教会で礼拝の中で特別に語る場合の「証し」とは違うと言ってよい。著者は信徒として尋ねているわけではない。だからなのかどうか知らないが、一般書のためということで、その熱心な意図の説明をたっぶりと聞いて、ずいぶんとあけすけに語ってくれているのである。
むしろ教会で語るとき、クリスチャンはきっと「構える」だろう。よいことを話さなきゃ。神に助けられた「良い子」の話をしなくちゃ。やはりそこは「信仰者」としてのモデルになるべく、言葉を選び、話す内容を考えるだろう。だが、本書の取材はそういう場所ではない。そこは著者の「聞く力」の故なのだろうが、実に露骨に、様々な「本音」が並んでいる。
そう。こういう「証し」を、私は聞きたかったのだ。信仰の本音とは何か。
もちろん、教会でそのまま語っても泣いてしまいそうな、神に支えられた人生体験もある。信仰を伝えることに苦労している話もある。他方、この人はこんな話を教会でやったら、追い出される可能性もあるのではないか、と心配しそうになる話もあった。いや、ほんとうに凄い。ここまでさらけ出して話してくれたのだ、と感謝と感動に包まれている。
それらの内容については、ここでは触れない。どうぞ読者として皆さまが、体験して戴きたい。
こうして連日「証し」を味わって、いろいろな人と出会っていると、忘れてしまっていたことがあった。それは、著者自身の声である。姿を消して、声を消して、百人以上の声を届けてきてくれた。では、著者自身はどうなのであるか。クリスチャンではない、ということは聞いているが、信仰とは何かを知りたかった、その思いはどのように解決されたのか、あるいは自分で何か信仰のようなものをもつに至ったのかどうか、それは興味があるではないか。
本書については、一般紙の報道もあったが、キリスト教関係のメディアの取材もあった。そこで信仰ということについて、やはり突っ込んだインタビューもなされていたが、教会などとは少し距離をとっている様子が見てとれた。しかしまた、聖書については非常に内面的な理解があると思ったし、この人が信仰をもっている、と口にしたとしても、何の違和感も覚えないだろうと感じた。洗礼こそ受けないというスタンスかもしれないが、心はその世界をちゃんとご存じだ、というふうに思えたのである。
ただとにかく、はっきりとした信仰への自身の態度が、一向に出てこない。当たり前である。誰かが「証し」を語る間、著者は出て来てはならないのである。話を誘導するような真似もできない。本当に、消えていた。
このままで終わるのか、と思われた「あとがき」で、私は驚いた。それが出て来たのである。また、本文中のある人Aの姿に「共感を覚える」とも言う。もちろん、その通りだ、と述べているわけではない。だが、そのAについての叙述が、この「あとがき」に、やけに多い。しかも本文でAが話していることではなく、その外で話しているようなことがたくさん明かされているのである。やはりここには、何か思い入れがあるのではないか、という気がする。
その考えというのは、よくあるキリスト教理解とは違うものであった。ただ、人間世界を冷静に見ているならば、そのように解釈したいだろう、と思われるような理解であった。それは、よく読み込んだ田川健三氏の影響を強く受けているような気もした。ただ、人間としての思い入れはそれでよいが、聖書がそれを語っているかどうか、広く見れば、強調しすぎるべきことではない、と私はやはり思う。一部に確かに書いてある。だが、著者自身も指摘しているように、聖書は各所で互いに矛盾するようなことが書かれているものである。何百年か千年かの単位で、様々な人間の手を通して記されてつながれた書であるから、様々な信仰がそこに溢れている。だからどこか矛盾のように見えても、おかしいはずはないのだ。しかし、主流というものはあるだろう。一部のわずかな表現を過大視して、他はすべて嘘だ、というような言い方をすることは、慎んだほうが懸命である。その点、著者は節度を守っている。その姿勢は、一人の信仰者だとしても肝の据わった、そして愛のある、好感のもてるものであるように私は感じる。
それでも、私が強く思うのは、聖書のどこかに霊感を受けて、それを自分の生き方としていることについては、大いに賛同の気持ちを表したいということである。ただ、自分のインスピレーションを受けた聖書の意味が、聖書の真の意味であり、他の人が言うのは嘘だ、というような言い方をすべきではない、という点は揺るがない。自身の信仰は、自身の神との出会いの体験であるから、他の誰も否定はできない。互いに、そういう認め方をしていくのであれば、聖書は、一人ひとりを輝かせる力を、もっと発揮できるだろう、というように信じている。
巻末の参考文献は、私の知るものがたくさんあるが、読んだことのないものも数多い。外国の神学書をここに入れる必要は全くないだろう。これは日本人の信仰を探究した書である。著者は、実に深く広い信仰書や研究書に目を通している。その勉強の量だけを見ても、よくぞ書いてくれたものだ、と改めて感謝の意を表したいものである。
実に様々な人の「証し」がここにある。ちょっとしたことで、近くの仲間を裁くようなことをしていた人にとっては、目から鱗が落ちるような体験をするのではないか。そして、人を愛するとはどういうことか、教えられるのではないか。読んでいて辛いこともいろいろあるだろうが、これはキリスト教会を変えるダイナミックな力をもつ本である。それは確かである。もしも、クリスチャンたちが、それに応えるだけの謙虚な信仰を持ち合わせているならば、の話であるが。
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