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本物を見つける
秋分を過ぎて、ますます日暮れが早くなった。それでも、東京などに比べると、40分くらいは遅くなるようだ。夕刻に、中学生がやってくる頃は、夏場にはまだ十分明るかったが、いまはもう真っ暗である。
今年のセミは早くから鳴いていた。こちらではクマゼミやアブラゼミが優勢を極めた後、夏を惜しむ頃にはツクツクボウシがワンフレーズを歌い終わるのを愛でるようなことになる。芙蓉の花ももちろんずっと開いているが、きっと間もなく、どこからともなく、金木犀の香りが漂ってくるようになる。
「あっ、トイレのにおい」などという表現が、本末転倒であることは承知であるが、どうしてもそんなふうに言ってしまう。「ぬいぐるみみたいに可愛い」というのと同様であろうか。
言い過ぎかもしれないが、本物ではなく、キッチュが表だった「顔」のなりをしている。演技の実力がある俳優よりも、視聴率のとれる若いアイドルがドラマの主役になるのも、そういうカテゴリーに入るだろうか。
民主主義という概念に、そのような危惧をいち早く呈したのがプラトンであった。それを「衆愚政治」とまでけなしたのだ。頭数が多ければ、それが正義となってしまう。頭数を揃えて数を手にしてしまえば、それが権力をもってしまう。洗脳だろうが錯覚だろうが、賛同した者がそれを動かしたことになる。それでいて、何かあったとき、自分は動かされただけで被害者だ、と口にするような精神まで持ち合わせているとしたら、庶民もまたちゃんとその事態に手を貸していることになるはずなのに、そうは認めないのが通例だ。
リーダーを選ぶというのには、責任が伴うものである。それで失敗をしたこともある。ただ、私はそれを悔やんでいる。選んだ自分にも痛烈な批判を繰り返すばかりだ。
しかし、セイヨウタンポポが、カントウタンポポを駆逐してしまったように、後から出てきたものが、あっという間に支配権をもつようなこともある。セイヨウタンポポが悪いという意味ではないが、世の中は悪貨がはびこってしまうものなのかもしれない。だから、本物を求めたい、という気持ちがあった。いまでも、それはある。
高価な真珠を見つけると、全財産を用いてでもそれを買い求める話が、マタイ伝にある。畑に宝を見いだすと、持ち物を売り払い、その畑を買う話と並んでいる。数が多く、ありふれた景色が尊いのではない。聖書は、見えないところにある宝を見いだすことを推奨しているように見える。それが、「狭き門」から学びたい意味ではないだろうか。
本物を見ているかどうか、私たちは自らを省みる必要がありそうだ。