『主が、新しい歌を 加藤さゆり説教集』(加藤常昭編・教文館)
説教者を知らなくても、編者の名前から検討がつくだろうと思う。日本で説教を最も重視し、説教塾を立て、何百人もの牧師の説教に対する考え方をつくりかえた加藤常昭氏の妻である。
2014年8月、本書の発行後間もなく召された。
1964年の大きな手術以来、多くの病を担い続け、もはや治療不可能という事態になり、本書が編まれた。夫常昭氏の、感情溢れんばかりの、しかし結局は信仰に溢れた形の、「まえがき」や「あとがき」が、胸に突き刺さるように響いてくる。礼拝での説教は殆どなかったというが、伝道者として、必要な場面での説教や講話を生みだしていた。それをこうして形にするということを、常昭氏は、万感の思いをこめて、「夫婦が地上でする最後の共同のわざの実りをお受けください!」との祈りを綴っている。主に向かって、である。人に対して何をどうするということではない。これは主への献げ物である。だからこそ、これは主からの言葉でもあるのである。
内容は「詩編講話」が半分、「礼拝説教」が半分である。その礼拝説教にも、詩編からの説教が二つある。詩編がお好きなようだ。
原語のもつニュアンスを、ほどよく提供し、しかもそれが解釈の決定的な理由となり、味わうためのよき導きとなるのだから、必要不可欠な言及だと言える。歴史的に解説をしようとするよりも、いくらか情緒的な雰囲気も醸し出しながら、「詩」そのものを味わい、そこから気づかされたことを聴き手に示す。神はここにいる、神の言葉はこのようである、と伝えている。
特に「礼拝説教」のほうには、御言葉の朗読の次に、説教者の祈りがそのままに収録されている。その祈りが、大抵実に長い。ここまで祈りの言葉を告げていたら、それだけでずいぶん説教の時間を埋めてしまいそうになるのではないか、と心配するほどである。それは教会を愛する思い、傷ついた人への執り成し、世の平和も含みながら、信仰に溢れた祈りそのものである。この祈りから学ぶことは多い。読者は、説教本編もさることながら、この説教に先立つ祈りから、まず味わってみたいところである。礼拝を結ぶときにも、祈っている。それも収めてある。こちらはそう長くはないが、神を見上げ、希望をもって歩き始めるスタートに相応しい祈りである、と言ってよいのではないかと思う。もちろん、そのどちらの祈りも、神を称える信仰の祈りでもある。
このような祈りは、普通、説教集には必ずしも収められていない。だからまた、貴重なのである。
信仰への厳しさと、細やかさ。やはり少しばかり古い世代の方の声であることは否めないが、イエス・キリストは昨日も今日も変わることがない。むしろ、罪という言葉が説教から消え、あるいは形だけ口にされるというような時代になったいま、恵みは罪と悔い改めからこそ受け取るようになるのだ、という基本に、私たちは立ち返るべきではないだろうか。
死地に赴く方への餞に過ぎないような説教集ではない。人の中に救いはない。キリストからそれは来る。ブレない視点は、岩なるキリストへの信仰につながる。しかしまた、弱い者への眼差しがここに溢れてもいる。その後の流行の「寄り添う」というような言葉を連ねるわけではないが、自分本位でいい気になるだけの「寄り添う」のとは違う形で、キリストにあって真に寄り添う姿がここにあるような気がしてならない。
また、「教会」というものへの信頼と責任感というものも、強く感じる。もちろん牧会者の妻としての立場もあるだろう。しかし、キリストの名を冠する「教会」なるものがどうあるべきか、それを見据えながら、この「教会」に救いがあるのだという信仰もそこにあるのだろう。いい加減な気持ちで牧会をしていないことの証しである。
詩編は、気持ちを揺さぶる言葉も多いが、なんとなく読み過ごしてしまいがちな聖書の巻である。いまいちど、詩編をどう読むのかをここから学び、人の生き方や信仰の真実を、教えてもらうというプランはどうだろうか。真実に生きた方の、生の声を聞きながら、新しい歌を歌いたいものである。主が与える、その歌を。